生命や自然をメタファーとすることへの違和感とリジェネラティブ(再生的)な文明装置としての拡張生態系(人新世における都市と建築の新陳代謝-メタメタボリズム宣言 / 船橋真俊 – より)

2013年から森美術館主催で毎年行われてきたICF(Innovation City Forum)の総集編「人は明日どう生きるのか 未来像の更新」面白かった。

集大成となった2019年は「都市と建築の新陳代謝」「ライフスタイルと身体の拡張」「資本主義と幸福の変容」という3つのテーマを掲げられている。

あとがきで、編者のアカデミーヒルズ南條史生さんも「当初は東京をクリエイティブの中心都市とすることを試みてきたが、最終的にはそれよりもはるかに大きな物語につながっていった」と書かれているように、シティフォーラムとは言えどその射程は深く広い。

建築、都市、アート、デザイン、科学、経済など立場の異なるオピニオンリーダー達の視点が、領域横断的・立体的に絡まり合う感じがとても良く、近未来の都市、環境問題からライフスタイル、そして社会人間のあり方を考察し「豊かさとは何か、人間とは何か、生命とは何か」といった問いに切り込み、輪郭が表れていく。

ドミニクチェンさんや長谷川愛さんらの対談、Noizの豊田さんやBoundBawの塚田さんの論考、さらには、篠原雅武さんがティモシーモートンの「自然なきエコロジー」の話までしていて、どこからよもうかなーと楽しくパラパラとめくっていたのだが、

「都市と建築の新陳代謝」の章の中でみつけた、ソニーCSL船橋さんの「メタ・メタボリズム宣言」があまりに凄まじく、そのまま一気読みしてしまった。要点を記録しておきたい。

人新世における「都市の新陳代謝」〜メタボリズムの脱構築とは?

「都市と建築の新陳代謝」は、建築・都市が生命体のように新陳代謝して状況の変化に対応し、サイズや機能を変化させていくべきだという、いわゆる1960年代に盛り上がったメタボリズム建築の再考ともいえるテーマ。

その背景にあるのは、鉄とコンクリートとガラスという近代建築の中で、多数の空中都市や海上都市を構想されたもののあまり本質的な新陳代謝は当時は実現しなかったが、ハードとソフトという区画を超えた先端テクノロジーが生まれている中でネオ・メタボリズムとして改めて構想していけないだろうかという問いかけだ。

だが、船橋さんは悠々とその枠組みを超えて切り込んでいく。
まず、これまでのメタボリズムの限界をこう指摘する。


・社会変化に対して有機的に成長する都市や建築を志向したメタボリズムは、生物の新陳代謝をアナロジーに都市インフラの機能性を構想しながらも、然るべき生態系サービスの対象化と増進・活用方法、人工物との親和性や接続方法について無知であったために、未来志向のデザインの域をでないやや芸術的な価値にとどまってしまっていた。


・代表的なメタボリズムの流れをくむ建物や都市計画の何れもが化石燃料の消費や食料の外部依存を前提としたエネルギー収支とライフスタイルを前提にしており、その本質的な活動基盤は極めて機械論的である。

・そして、野山などの自然に相対する感覚でメタボリズム構築を見たときに感じる違和感ー表面の滑らかさや空間的構成の多様性の生物らしさに対する、内部メカニズムの冷徹なまでの機械文明的効率への依存性ーは、メタボリズムが本来含意していた持続可能性への自然な転換からむしろ遠ざかり、資源・支援が特異的に集中するケースのデザイン的なオルタナティブとしての位置に自己規定しつつあるように見受けられる。

つまり、生命の新陳代謝の機構をアナロジーとして構想しながらも、その本質的な活動基盤が機械論的ではあるまいか、ということである。

これは都市・建築に限ったことではない。例えば、ビジネスにおいて「エコシステム」という言葉を使いながら、よくよく聞いてみると、世界の観方は機械システム的なままで、生命の営みと向き合う視点や生態観はまるでなかったりする。

メタファーとして生命や自然を語ることへの違和感

先日リジェネラティブ・リーダーシップをテーマにした読書会を主宰していて「なぜ生命というメタファーが使われているのか」という質問を受けたのだが、むしろ逆で、組織は活きた生命システムとしてすでにそこにある。それを機械的なものとして捉え、扱っているのは僕ら自身(の世界の見方)だ。だから、それはもはやアナロジー(類推)やメタファー(比喩)ですらないわけだ。

ここのところ生命や自然をアナロジー(メタファー)とした本や記事が増えているように思う。生態系や生命圏に対する感度や課題意識の高まりとして素晴らしいと思う一方、あたかもそうした自然環境への配慮をしていますという免罪符的な使われ方や持論を説明するためだけの恣意的な使われ方にはどうしても違和感を感じてしまう部分もある。

その違和感とはなんなのだろうと探ってみると、先のリジェネラティブ・リーダーシップの共著者の一人Lauraがコペンハーゲンで話していた時に言っていた言葉を思い出す。

たとえ豊かで持続可能な社会づくりを目標に掲げていたとしても、リーダー自身が内なる生命と調和していなければ本当に必要な変容は起こっていかない。
(Laura Storm / Regenerative Leadership)

そう。まさに、その人自身が内側から生命の営みに向き合っているかどうかなのだ。どんなに自然に関する知識武装して、高尚な社会・経済システムを頭で描いたり、環境やらサーキュラーやら綺麗な言葉を使っていたとしても、その根っこのパラダイムが変わらなければおそらく人類は同じことを繰り返してしまう。Lauraの言葉を借りれば、バイオミミクリならぬ、バイオハッキング(生物盗用)になってしまうだけなのだ(詳しくは下記のインタビュー映像をご覧いただきたい)。

そうしたリーダー自身の内面性は紡ぐ言葉や在り方、現実化する事業や人間関係、社会システムの端々に現れる。僕が、桜田洋一さんの亜種の起源にとても惹かれ、感銘を受けたのは、科学的な知見に基づく見解や主張もさることながら、そうした安田さんご自身の豊かな感性を本を通じて感じ取ることができたからなのだと思う。

人新世という地質年代が叫ばれ、第六次絶滅期や生物多様性の危機が警鐘され、人と地球環境との関係性がかつてないほど問い直されている時代だからこそ、今必要なことは生命や自然を安易にメタファーとすることではなく(ともすれば冒涜になりかねない)、生命システムの連環の中で自らを真摯に生き、生命の営みに向き合うこと。生命や生態系への敬意と畏怖と謙虚さをもって、絶え間ない観察と相互作用の中で関係性を再構築していくことこそ現代を生きる一人一人に問われているのではないだろうか。
(システムとのダンスとも言い換えることができると思っているがそれはまた後日)

「社会的共通資本」から「自然–社会共通資本」へ

話を戻そう。そうした点において、「表面の滑らかさや空間的構成の多様性の生物らしさに対する、内部メカニズムの冷徹なまでの機械文明的効率への依存性」という船橋さんの表現は、まさに鋭い。

そこで船橋さんは、地球生態系を母体とした「社会資本の前提となる自然資本の構造転換」が必要なのではないかと問う。

・これからの人新世の都市のメタボリズムには、社会資本の前提となる自然資本の構造転換が不可避的に伴う。典型的には、資源の枯渇、気候変動、そして生態系の機能不全である。それらの変化を引き起こし、また適応の鍵を担っている母体は、46億年の歳月を経て培われた地球生態系である。

・生態系においては、生物多様性に起因する様々な生態系機能が、直接・間接的相互作用の複雑なネットワークを形成し、それらの正味の効果が現在の社会資本を支える様々な生態系サービスとしての自然資本を形成している。動植物などの生きた自然資源だけでなく、化石燃料や一部の鉱物さえも、過去の生態系活動に由来している。

科学的であっても直接的に検証可能な要素のみにバイアスがかかった知見だけを信じていると、ある日突然、なぜかわからないのにこれまでの経済活動のロジックが通用しない事態に陥るリスクがある。自然資本の喪失によって、化石燃料の枯渇、水不足や水害、新興感染症の蔓延、農作物の受粉効率の喪失など、桁外れの外部不経済が経済圏を襲うからだ。

以前に開催したEcological Memes Forum 2019〜あいだの回復〜でご登壇いただいたECOSYX LABの紺野先生も最新の著書「イノベーション全書」で、

「21世紀は大きな環境革命の世紀ともいわれています。イノベーションの背後にある最も大きな力は、地球規模の環境変化だという事実は、あまりよく知られていません。それに伴って、大きな生産システムの転換が起きています。」

と、まさに環境革命がもたらす意識革命の重要性に言及されているが、根本的に依存しているにも関わらず、これまで人の世界に閉じこもり、外部性(あるいは市場の失敗)として無意識的に切り離してしまってきたものがそれでは済まされないところまできているということだ。

では、この地球生態系を母体とした視座に立った時、都市という文明基盤には何が期待されるのだろうか。

・ジェーンジェイコブズの都市計画上の4大原則は、アメリカ経済が生んだディストピアから脱却するための住みやすさ、人間都合の魅力や文化といった観点にとどまっている。そこには、都市空間の快適性や居住性を高めようという文化的な発想はあれども、現在危惧されている気候変動や生物の大量絶滅による都市のライフラインへの懸念は微塵もみられない。

・元来、都市空間とは、古来より人間が物資と情報を集積してきた文明の基盤であった。それは、一方で人間の生活を自然の脅威から守り切り離すプロセスでもあり、自然資本と社会資本の再生産過程が分離したところから、現在の環境問題につながる真因が仕込まれていたことになる。

・社会生活にとって快適・文化的なおよそあらゆる情報が手に入り維持されている都市空間の中で、それらのさらに大元になっている空気・水・食糧について、生態系レベルのメカニズムに即した情報が極度に不在なのである。

つまり、文明の集積として生まれてきたこれまでの都市は、根源的な人の営みが自然環境の生態系とつながっているにも関わらず、自然資本から切り離された社会資本の再生産のみに焦点が当たってきた(考えないようにしてきた)という本質な限界と矛盾を抱えているというのがここでの指摘だ。

リジェネラティブ(再生的)な文明装置としての拡張生態系と協生農法 

では、その矛盾をどう乗り越えていくのか。
ここで指摘されているのは、経済活動における環境負荷を減らそうというような話ではない。社会共通資本や保護政策の策定によって環境破壊を緩衝しようとする試みは、時間を延長はするが根本的には解決しないからだ。

そうではなく、自然生態系とつながりあった再生産過程、つまり自然資本の再生産に積極的に文明活動が関わっていくことができないだろうかというのが船橋さんの視座であり、そこを切り拓こうとしているのが協生農法だ。

協生農法や拡張生態系については以前にも書いたことがあるが、興味深いのは農業の一手法という枠を超えて、生態系のあいだを回復する文明装置としての可能性だ。

・このように人間が介入することで初めて自然状態を超えて、目的に応じた残大祭的が成される生態系は、学術的に「拡張生態系 Augmented Ecosystem」と呼ばれ、協生農法の基礎となっている。

・拡張生態系の射程は、局所における生態系サービスにとどまらない。それらが往来する生物によってネットワークを形成した時に生じる相転移的な効率の増進が期待されるとともに、都市部に形成される多様なミクロ気象を利用して、都市外を含む地方一帯における多様な食糧生産の可能性を集中的に模索するスクリーニング圃場や情報集積センターとしての役割が構築可能である。

・単なる緑地や菜園を超えて、文化的な人工物が持つ情報量以上の生態系情報を有機的に組み合わせ活用するための文明装置として、都市の片隅に点在しているあの空間も、この空間も、地球のあちこちに実現可能な未だ見ぬ拡張生態系につながり、相互に保全性を高め合うハイパーリンクとしての可能性を秘めている

・それはこれまでの社会的共通資本としての都市計画を超えて、人間の生活圏と生態系の循環が高度な形で融合する自然ー社会共通資本へ向けて飛び立とうとする、未来を作る乗り物となるだろう。

・地球生態系が地球規模で達成され、食ー健康ー環境の持続可能性が解決された暁には、我々はどこに向かうのだろうか?そこには個や種族としての本質的なサバイバルの葛藤はなく、種を超えた生態系としての意思判断が顕在化されると考えることもできる

・更に、生態系の拡張技術は地球外惑星のテラフォーミングにも応用することができ、これらの生物多様性の総合的発展は宇宙規模でのシグモイド成長における初期の指数発展局面に相当する可能性が示唆される。

ここで重要なことは、拡張生態系が、単なる都市部における食糧生産だけでなく、自然資本の再生産に積極的に文明活動が関わっていくというある種の文明装置として捉えられている点だ。

人間と自然との接点を減らす(それでは切り離されてきた溝が深まるだけだ)のではなく、人間が介入をすることで、生物多様性を高めていく在り方を模索する。

これはまさに人と地球環境とのリジェネラティブな関係性へのエコロジカル的転換であり、「社会資本の前提となる自然資本の構造転換」に他ならない。

新陳代謝の本質は閉鎖系と開放系のあいだ(界面)にある

さらに、話は新陳代謝の本質、すなわち生命の起源に潜っていく。

・メタモルフォーゼの試みが文明の失墜ではなく羽化につながるように、新陳代謝の起源から探ってみよう。

・生命の起源は脂質二重層の細胞膜で内界と外界を経て、内部に自律的な代謝系を保持することで遺伝的な一貫性と自己増殖機能を獲得したところからはじまる。

・その鍵となるのが、疎水性と親水性の性質を併せ持ったリン脂質分子であり、水と油が弾き合う性質をうまく利用して取り込んだり排出したりするべき物質を選り分け、閉鎖期と開放系の両方の側面を持つ個体の界面を形成している。

外部からの侵襲を許さない閉鎖性と、外部との積極的な物質循環を促進する開放系、この二側面の調整と機能的な統合が、細胞ー個ー社会ー生態系に通底する生命活動の必要条件であり、各レベルで新陳代謝の持続性を司っている。

・生命の必要条件に則って考えるなら、これらの閉鎖系の極限と開放系の極限の両方に拡張された都市を考えることができる。

持続可能な都市の実現には、新たな形での物資と情報の集中拡散をデザインすることが必要となる。物質資源の移動自体が問題なのではなく、そのやり方ーつまり界面のデザインーが問題なのである。

なんと、ここでもやはり「あいだ」のデザイン

・工業的には炭素循環の収支、農業的にはさらに窒素循環の修士が気候変動にとって主な指標となるが、それらの排出総量の削減に本質はない。実のところパリ協定を遵守したとしても、気候変動に付随するより大きな問題ー生物の大量絶滅は免れない。

・本当の問題は、経済主体の維持過程で閉鎖系・開放系をバランスした再生産がなされているのに対し、自然資本に関してはほぼ一方向的に社会資本へと転換され、一部の保護区や近郊の保全活動を除いて、実質的な再生産過程が文明活動から抜け落ちている。

・いわば、都市を駆動する最も強力なメタボリズムである経済圏は、生態系に対して未だ閉鎖系の段階に留まっているのだ。

あらゆる系は究極的には閉鎖系であると同時に開放系であり、その界面(あいだ)でおこる新陳代謝は生命活動の必要条件であるにもかかわらず、社会資本から自然資本への流れや循環が抜け落ちてしまっていることが現代文明の根本的な課題であると。

だからこそ船橋さんは、冒頭で言及していた「社会資本の前提となる自然資本の構造転換」の必要性を主張する。

・自然資本の再生誕過程を文明活動自体に内在化させ、それを切れば自ら血がながれるのような都市の臓器や身体として組織化すること。自然資本のメタボリズムが都市に通う血液となるように、都市の心臓を機械から多層の生命活動へと転換すること。

・原子の海の化学スープが細胞膜という界面の創発により、はじめて自律的な細胞を形成したように、自然資本と社会資本の界面をマルチオーミクス的解像度で改名・組織化する文明装置が、農耕の発明以来の都市発展の新たなパラダイムを切り開くカギを握っている。

・時に能力肥大への憧憬にあこがれサイボーグ化を夢想する人類とは裏腹に、都市は機械文明の集積地としての複雑化を極めた末にはじめての生命化を望んでいるのだ。

人と地球環境とのリジェネラティブな関係性へのエコロジカル的転換

「自然資本のメタボリズムが都市に通う血液となるように、都市の心臓を機械から多層の生命活動へと転換する」

都市に限らず、様々な領域でこうした「エコロジカル的転換(と僕はよんでいる)」が求められているのだと思う。それは、環境負荷の軽減という枠を超えた、人間と地球環境が共に繁栄し合えるような関係性への転換だ。

社会を支える典型的な要素や生活様式を、物質・情報の集中(閉鎖系)と拡散(開放系)の二つの方向性に基づいて考えたとき、どのような部分的な利点があったとしても、結局は自然ー社会共通資本の保全性を高める再生産過程に回収できなければ、持続可能性、生物多様性からは遠ざかってしまう。

だからこそ、人新世におけるメタボリズムというのは、人の世界に閉じるのではなく、(単なるメタファーとしてではなく)自然生態系のメカニズムを内在化し(あるいはその一部となり)、閉鎖系と開放系の界面(あいだ)の然るべき新陳代謝を取り戻すことであり、それが冒頭でも言及されていた「社会資本の前提となる自然資本の構造転換」の本質なのではないだろうか。

それにしても、生態系の拡張技術の地球外惑星のテラフォーミングへの応用や、持続可能性の先に種を超えた生態系としての意思判断のことがさらっとかかれているあたり凄まじい寄稿でした。

人は明日どう生きるのか ――未来像の更新