日本人の美意識とからっぽの可能性  〜 大神神社と原研哉 〜

日本人の美意識とからっぽの可能性 〜 大神神社と原研哉 〜

 

先日こっそりと行ってきた日本最古の神社(の1つ)、奈良県桜井市の大神神社。吉方取りということもあって、西に向かい、たどり着いたのがこの場所。

境内の一角から天を仰ぐような一の鳥居を眺めて、思いっきり深呼吸をして、たくさんの気を吸い込む。一体がエネルギーに溢れていて、どんどん満たされていく感じ。

巷でいわれるようなスピリチュアル云々ではなく、自分の内に秘められた感覚を解き放って、壮大な自然のエネルギーに身を委ねるような、心身が喜んでいて、とっても心地よい経験でした。

(ここは、三島由紀夫が、感銘を受けて、「清明」の石碑を残した場所でもあります。碑の横に由来書きによると、三島由紀夫の作品「奔馬 豊饒の海」に三輪山との深い関係が触れられているようです。彼はドナルド・キーン氏とここで三日間参籠し、ご神体の「三輪山」にも登り、降りて来て書いたのが、「清明」という言葉だそう。)

 

 


その壮大な感覚の中で、ふと思い出したのが、僕の尊敬するグラフィックデザイナー、原研哉さんの言葉。
日本人の美意識について語る彼の言葉はどれも素晴らしいですが、こちらの採録で以下のように述べています。

 

空っぽというのは満たされる「可能性」そのものとしてあるわけですから、神様はそれを見つけて、ふらりと入るかもしれない…その「かもしれない」という可能性に対して古代の日本人は手を合わせた。

神社の中枢は「空っぽ」なんです。その可能性に対して拝んでいるということです。これは、より大きな規模の神社の構造です。

 

鳥居もまた空っぽです。入り口であり出口である、ここから出たり入ったりするということを示す空っぽです。この鳥居に導かれて中心部に至るわけです。

 

この、神様が入っているかもしれないという中心の空っぽに対して、自分の気持ちを投げ入れる…いい人に出会えますようにとか、大学に受かりますようにとか、そういう気持ちを投げ入れて帰ってくるわけです…つまり、空っぽを介在させて、不可知なるものと交流するという、エンプティネスの運用が、基本ルールなんです。

 

引用文・図:http://www.muji.net/lab/report/100203-01.html

 

 

素敵な感性だなーって思った。

究極は、「空っぽ」の人生なのかもしれない。

 

その「空っぽ」の空間の中で感じた、内側がエネルギーに満たされていくような、あの壮大な感覚。

それは、もしかすると西洋の「シンプル」とは違う、「エンプティネス」という日本人の美意識と通ずるのだろうか。

 

ふと、そんなことを思った夏の終わりの朝でした。

*追記

僕の大好きなMidnight In Paris(by Woody Allen)の中で、Kathy Bates演じるガートルード・スタインが

“Artist’s job is not to come to the fear (of death) but to find the antidote for the emptiness of existence”
(芸術家の仕事とは死の恐怖に囚われることではなくて、空虚な存在を乗り越える解毒剤を見つけることなのよ)

と言うシーンがあった。ここに、原研哉さんの言う、「可能性」に手を合わせる日本人の美意識が、対照的に存在する気がした。