自分の内側から始まるエコロジカルな時代の生き方とは?ティモシー・モートンの型破りな環境哲学

自分の内側から始まるエコロジカルな時代の生き方とは?ティモシー・モートンの型破りな環境哲学

「複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学」がとても面白かった。
篠原 雅武さんがティモシー・モートンの思想を読み解いた一冊。

純粋無垢な自然環境を理想とするが故に、ともすれば個を埋没させていく全体主義的な(人間不在の)イデオロギーになりかねない従来のエコロジーに対し、
自己の内面あるいは身体の感覚と内省を起点とした型破りなエコロジー哲学。

わたしが生きる中で様々に感じる時、それは確かにわたしの主体的経験なのだけど、同時に、わたしを取り巻くわたしならざるものとの連関の中で生じ、結果としてわたしが持っている。

だからこそ、それが無意識であれ意識的であれ、エコロジカルな目覚め、転換というのは、人間の内的空間への内省から始まるし、「私」自身をエコロジカルな存在であると考え、「私」ならざるものへの感度を高め、調子を合わせていくことなのだ、というのが僕なりに受け取った彼の主張。

一方では、人が生きている世界(人工環境)を議論の対象としていたり、
結局は(人間ならざるものと連関した)人間存在の危機に焦点が絞られていることを
どう捉えるべきかという疑問も。彼の「自然なきエコロジー」もじっくり味わってみたいところ。
(彼はObject-Oriented Ontology=OOO、客体指向存在論というものの提唱者の一人でもあるそう)

そして、本書にもフェリックス・ガタリの3つのエコロジーが登場するが、これは、明治時代末期の神社合祀の際に、南方熊楠が警鐘を鳴らしていた、「自然のエコロジー」「社会のエコロジー」と連動する形での「精神のエコロジー」の危機や人間のデラシネ化(根っこのつながりを失ってしまうこと)ともかなり重なる。


意識が生命や無意識から切り離され、知性が感性から切り離され、因果性が偶然性から切り離されて、人間が人間だけの世界に閉じこもって自足するようになる、そのことが人間の「精神のエコロジー」を破壊するのです。これは根源的な人間のデラシネ化にほかなりません。

複雑系の時代を生き抜く知恵 〜 南方熊楠の星の時間/中沢新一 〜
http://beyondthenexus.com/wisdom_of_nature/


惑星規模で持続可能性というのが益々大きなうねりとなっていく中で(エコロジカルな時代と呼ぶこともできるだろう)、
生態学、エコロジーというものを個人の在り方とも引きつけて、今一度捉え直していく必要性を感じていたところだったので、九州大学・稲村さんにご紹介いただいたティモシー・モートンのエコロジー哲学はめちゃくちゃインスピレーショナルだった。

そして今度、生態系×東洋哲学×デザイン(post-human centered design)をテーマにしたセミクローズドのトークイベントを5月以降スタートしていくで、この本に関わらず、もしご興味ある方いたらコメントかメッセください◎(初回は稲村さんにお話しいただく予定&4月にプレ企画(オフ会?)もやる予定)

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー(以下、備忘メモ)ーーーーーーーーーーーー

・モートンのいうエコロジーとは、次の二点に集約される。

1)エコロジーはまず、惑星規模で生じつつある一つの目覚め、文化的な転換、新しい時代の名称である。人間の生活は、人間の世界の中では完結し得ず、人間がその中で生きている惑星との密接な関わりの中で営まれているということが、人々の間で、それも国家や地域といった閉ざされた単位内ではなく、惑星という広大な規模で意識化されるようになっている。そこに始まりつつあるエコロジカルな態度、これが何かを多くの人に考えてもらい、かつその態度を自らにおいて身につけてもらうための手助けをすること、これがモートンのいうエコロジーの思想である

2)そして、エコロジーの思考は、内的空間への内省を基本とする。惑星規模で起きている現実への洞察は、いきなり外の世界へと飛び出すのではなく、私の内的空間において私が持つことになる経験への洞察に立脚する。モートンは、エコロジカルな時代における経験の様式を「衝突すること(Impinge)」と言い表す。つまり、わたしが経験しているのは確かであっても、その経験の様式は、わたしの主体的実践の結果獲得されるというよりはむしろ、わたしが生きていて、歩いていて、会話している時、わたしならざるものがわたしへと衝突してくることの結果として、わたしが持つことになる、というものである。

・レビー・ブライアントはモートンのエコロジーの独自性を次のように主張する。従来型のエコロジー思想(自然保護思想)は部分としての客体にある謎めいた側面をむしろ埋め、空無の場所を奪う傾向にあるのに対し、モートンのエコロジーは「自然における無分別なもの、廃棄物、あるいはあらゆるネットワークを掘り崩す可能性をその内に秘めているものを認識する」

・確かにモートンのエコロジー思想では、諸所の部分が一つの全体へと統合されるというモデルが批判されているが、それだけでなく、部分が他の部分と関係し、関係の中へと埋没するというような関係論的な発想もまた批判されている。埋没するなら奪われてしまう曖昧さ、首尾一貫しないものこそが、エコロジカルな目覚め、転換において大切である。つまり、「ありとあらゆる予定調和のひっくり返し」としてエコロジカルな転換はおこる

・ただし、エコロジカルな転換は、人間の内的空間への内省から始まる。環境汚染を推進する企業を直接に糾弾し、その悪を告発し批判するという思考と行動の回路とは、それは区別される。悪の世界が外側にあり、善良で正しく純粋無垢な「私」がそれと対決しているという態度に囚われている限りーそれをモートンは「美しい魂症候群 beatiful soul syndrome」と名付けるのだがー、 純粋無垢で正しい「私」はその状態のままで固定され、停止してしまう。

・エコロジカルな内省は、「私」ならざるものへの感覚を高め、「私」をそこへと調子を合わせていくことを意味する。とはいえこれは、エコロジカルな連関の中へと「私」を過剰接続し、その中で「私」を抹消していくことを意味しない。固定された「私」を完全に消すのではなく、「私」自身をエコロジカルな存在であると考え、「私」ならざるものへの感度を高め、調子を合わせていく。

・モートンはビョークの音楽について、「あなたの作品では、自分への配慮と他なる存在への配慮とのあいだの深い結びつきをみることができる。それがエコロジーなのです」という。

・つまり、エコロジカルな内省は「自分あるいは身体との感覚的な関係」をまずは大切にすることを起点とする。「私」は、私の身体と、感覚的に関わっている。痛みや深いだけでなく、快感、喜び、楽しさを、私は私の頭ではなく、まずは身体において生じているのを感じている。そしてこれらの身体感覚は、ただ「私」に限定されるものではなく、「私」に触れてくる他なるものとの関わりの中で生じる。

・ゆえに、「私」が感じる喜びや楽しさを気づかい大切にすることは、じつは「私」と触れているときに「私」ならざるものが感じる喜びや楽しさを気づかい大切にすることである。これに対してビョークは、モートンの言いたいことを、「あなたを気づかうこと=他の存在を気づかうこと=エコロジカルに気づかうことの始まり」と要約。

・エコロジカルに気づかうとは、まずは「私」が自分の身体において生じている喜びや不安を気づかうことである。そして、喜びや不快が生じ分かち持たれていく場があるときそこはエコロジカルな領域となって生じているが、この領域を気づかうとは「私」の外にある領域を内面的に純粋なものとして保護するといったことではなく、「私」が身を浸して感じるまさにそこのところを気づかい、壊しすぎないようにすることである。
★私がプレフィックスされた状態を崩し、感覚の領域へと浸していくということは、結局まずは自分が常に敏感になり、身の回りで起きていることに反応しようとする態度からしか何も始まらない


<アンビエントエコロジー>
・モートンは客体指向存在論(Object-Oriented Ontology=OOO)の影響を受けている

・現代の思考では、事物は普通はより小さな細片の集積と見なされるか(科学的な自然主義)、人間の行動と社会の構築物とみなされる(社会的な相対主義)。OOOは二つのあいだの途をたどり、あらゆる規模における事物(原子からアルパカ、細片からブリキ)に至るまで、すべての事物を斉一なものとして捉えようとする

・モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムに基づくものとしての雰囲気(atomosphere as a function of rhythm)」があるという直感がある。リズムは音楽的である。彼が環境危機というとき、それは人間とこの雰囲気との関係に関わるものとしての危機である。人間は人間が身を置くところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感こそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。

この喜びや愛を生じさせ、感じさせ、ともにすることを可能にする、感覚的なものへの配慮が、モートンの環境哲学である。モートンのいう環境は、人間から切り離され操作の対象物と化している環境とは違う。ゆえに、環境への関わりも、切り離された対象物への工学的な操作、持続可能性の向上といったこととは異なっている。

・そもそもモートンは、環境保護のイデオロギーがともすれば人間不在の思想へと転じてしまうことに警戒心を持っている。環境破壊の元凶を人間に見定め、人間医大の動植物の保護を優先するあまり、人間が消去されても構わないと考えるような虚無的な全体主義の思想に警戒心を持っている。さらにモートンは、環境保護の思想が権威主義的な有機体論と親和的であり、そのことゆえに抑圧的なナショナリズムの相関物になりかねないことに警戒心を持っている。

・これらとの違いを明確にするために、モートンは自分の著書名を「自然なきエコロジー」とした。人間と自然を対置させ、自然を人間よりも優位にあるものとして考え、生命圏中心主義を提唱することに警戒心を持っている。生命権中心主義の環境保護思想が、人間を抑圧する全体主義と親和的だという感触に由来する。
★それは環境危機への意識であると同時に、それと連動した人間性の危機への意識

<「あなたと私」のエコロジー>
・「エコロジカルに考えることは、ただ人間ならざるものに関わるのではない。エコロジーはあなたと私の問題である。」

・私が何かを考えているときに生じる想念は、私が何かを考えるときその周囲に広がっている環境性のある場で起こっていることとの関わりの中で、それに触発されることで、生じている。

・埋立地に建つショッピングモールを誰かと一緒に歩くとき私は何かを感じ、考えている。夜中の電車の中で、座席に座る人たちがスマートフォンを操作しているのを眼の前にしてつり革につかまっているとき、私は何かを感じ、考えている。

・モートンの関心は、私が何かを感じそして考えているまさにその時に私がいる、まさにそこのところをいかなるものとして捉えたら良いのか、一体なんなのか。

・均質な全体へと包括されえない、強度を持つ多数の部分が出ざいつつ連関していくところに成り立つ環境世界が、モートンの環境思考の起点にある。

・ゆえに、モートンが自らの環境哲学を「私たちの環境との良好な関係に基づいて思考し、感覚し、行為するt方法の確立」として提示する時、これがが何かを考えるためには、まずは私たち自身が、足したち自身の身体と感覚を通じて実際に経験しているこの場所との関係に関して思い巡らせていくことが求められる。

・フェリックス・ガタリが独自なのは、エコロジーの概念の拡張により、人間の生活様式を、それを外から取り巻き支える環境世界との関わりの中で捉えようとしただけなく、その悪化ー夫婦生活や家族生活の形骸化、近隣との付き合いの空疎化ーを、環境におけるエコロジー的アンバランスと並行していくものとして考える視点を提示したからである。

・環境には、意識によって構成される人間的な秩序へと還元させることにない、他性がある。ガタリのいう環境危機は、環境が人間的な意味を失い、人間がそこから阻害されていくことの問題というよりはむしろ、人間に対して他なるものとして存在している状態にある環境が悪化し、これが人間生活の悪化と連動していくことの問題である。

モートンは、温暖化と汚染がそこで進行している環境が人間に接近し、触れてくる状況において、人間が抱いてしかるべき適切な意識状態はどのようなものであるかを問う。そこでモートンは詩的なものの重要性を指摘する。モートンが詩という時、それは人間が生きているところを、普遍主義的な概念の硬直性に過度なまでにとらわれることなく、世界へと感性的な水準で触れながら言葉にしていくための緩やかな意識状態のことを指している。

・モートンはこの詩的な意識状態にふさわしい言葉がアンビエンスであるという。アンビエンスは、周囲のもの、取り巻くももの、世界の感触を意味している。それは、物質的で物理的だが、それでいて幾分触知し得ないもののことを示唆している。あtかも、空間そのものに物質的な側面がある、とでもいうかのように。

・つまり、アンビエンスは世界の感触、質感の精妙な性質に対応する言葉である。物質的だが、それでも客観的な事物としては捉えられない側面がある。その捉え難さは、あくまでも環境において、人間の内面性に対して外在的な質感に関わるというところにおいて生じている。

・アンビエンスという詩的な意識状態が二元論を崩す時そこに生じさせる、自分たちをその一部分として包み込む世界の穏やかな感覚は、この存在自体が、人が確かに生きていることの条件となる環境世界がそもそもどのようなものなのかへの理解を促すものになっている。★

・モートンの思考の基本にはアンビエント詩学がある。読むことと書くことの即興的な混合として、曖昧な自己矛盾において、美的なものを感知する、アンビエント詩学がある。

・モートンの詩学が問うのは、この人工的な環境世界は永続可能なのか、ということだ。ただし、モートンは二元論的思考の論理の哲学的な批判には向かわない。主体としての人間が客体としての環境を支配することの論理を、主客二元論という認識論的な問題として批判するという方向性には向かわない。主客二元的分割を乗り越え、自然と人間の一次元的な統合こそが解決であるなどという見通しを提示しない★

・モートンの思考は、二元論的思考の産物である、人工世界の実在性の根拠へと向かう。人工世界を、自然に対する支配の産物といった図式のものとで批判するのではなく、まずは人工世界への感覚を手がかkリニしてその実在の根拠のもろさはかなさを存在経験的な水準であからさまにするという戦略である。それは「喜びと情熱の何おいて環境を気づかうことであり書くこと歌うこと、わあたしたちの世界を気づかうことをさらにあ行うことのための余地常に作っていくことである」

・モートンが独自なのは、主客が分割されている状態の融合(人間世界と自然世界の一致)を提唱するのではなく、分割されている状態そのものがたとえ部分的ではあっても崩れる時に生じていくる詩的なものに特有の経験の重要性を論じているからである。

・モートンの提唱する人文学的な環境学は、環境を、無意識と連関させていることに着目し、その上でテクスト、詩、アンビエンスといった観点からの環境論である。重要なのは、モートンが環境を、感じてそして読み解くという極めて地味な作業から、捉えようとしていることである。モートンのいう環境は、普段は人間の意識、ないしは自我の働きにより抑圧され、ないものにされてしまっている。環境は、日常的な生活意識のもとでは抑圧されていて、現前することのない無意識的な状態である。

・モートンは詩や小説、音楽といった感性的な領域に触れる作品実践を重視する。環境と無意識を連関させることから類推するなら精神分析が、夢を手がかりにして無意識を解釈するのと同様のことをモートンは試みていると考えることができる。

 

ーーーーーーーーーーーー(備忘メモおわり)ーーーーーーーーーーーー