【対談取材】イノベーションと東洋哲学 〜効率主義は幸せを生むか〜  

【対談取材】イノベーションと東洋哲学 〜効率主義は幸せを生むか〜  

 「イノベーションと東洋哲学」について話をしよう、ということで実現した今回の対談。会計士やベンチャーキャピタルといったキャリアを経て、現在は高野山真言宗高福院 副住職を務める川島さんと、ヨーロッパを中心に世界のイノベーションの現場をみてきたDesignit Tokyo 櫻井さんという強烈なお二人の対談を取材しました。

内容は、

– 対話はエゴイズムからはじまる
– 対立せざるを得ない個の次元と調和的な全体の次元
– 仏教は効率主義のアンチテーゼか
– 
身体から離れた効率主義は幸せを生むのか
– 
人やものをきちんと「観る」ということ
– 
江戸時代のビジネスと贈与性
– 生を深く味わう幸せとは

などなどだいぶギークな感じになってます。笑

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Designit Tokyo 代表 櫻井亮 
×
高野山真言宗高福院 副住職 川島 俊之

イノベーションと東洋哲学

〜効率主義は幸せを生むか〜

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対話はエゴイズムからはじまる

 櫻井さん(以下、櫻井)ー まずは、東洋哲学とか仏教思想と絡めて、デザイン思考やダイアローグ、フューチャーセンターといわれている活動の本質と違和感みたいなところから話してみましょうか。どこにたどり着くかわからないですが。笑

川島さん(以下、川島)ー よろしくお願いします。ダイアローグとかフューチャーセンターなども日本で少しずつ認知されてきている中で、アウトプットにこだわっていくにはどうしたらいいか、結果を出していかないといけないよね、という議論は増えてきていますね。

櫻井 – イノベーションのエコシステムを創ろうみたいな話も出てきますけど、多様な関係者集めて対話をすれば、すぐに結果が出るってものではないので、きちんとしたコミットメントがないと厳しいでしょうね。

何年か前にヨーロッパのフューチャーセンターを視察に行った時に驚いたのは、必ずハーベストの間というのがあって、最後コミットするまででれない、っていうんですよ。その時は税制の政策提言に関するダイアローグをしていたんですが、その部屋の壁紙が誓約書になっていて、誰がどういう状況で何をするっていうのを書かないと、部屋からでれませんっていう。だから、フューチャセンター自身は意思決定を促していく装置であって、そこに覚悟やコミットメントを持ち込めるかというのは間違いなく大切ですね。

というか、アダムカヘン(*)がダイアローグをはじめた時は、紛争状態の中で、殴り合いじゃなくて言葉を使っていかに停戦状態にもちこむか、という文脈でしたね。ダイアローグって本来、一歩間違えば紛争・戦争状態になるようなひりひりした状況を、言葉でどう解決するか、というところが原点なんじゃないですかね。

川島 – そうですね。でも今のダイアローグって、全体的に明るい未来に賛成、という人が集まっている感じがするんですよね。悲観的なようですが、人は本質的にエゴイズムの世界に生きているので、みんな仲良く平和っていうのはあり得ないと思っているんです。世界は本質的に対立構造であって、対話によってもたらされるのは平和でなく停戦、という認識が必要なのかもしれません。

*アダムカヘンというのは世界的に有名な社会変革ファシリテーターですね。アパルトヘイト後の南アフリカの独立や、コロンビア内戦後の政府と反政府後など激しい現場に立ち会ってきたファシリテーターです*

 

対立せざるを得ない個の次元と調和的な全体の次元

川島 – 一方でそれとは少し矛盾するようですが、仏教では、人は深いところではみなつながっているんだという考え方があります。表にでている意識の部分では対立している個々人なんだけれど、意識の深いところや身体的な部分では人間はつながっているんだという考え方です。

先週の小林さんのイベントでも話をしたんですが、私たちの現実世界って、対立せざるを得ない個のエゴの次元(Rearity/リアリティ)と、深い意識や身体的な部分で人はみな基本的につながっているんだといういう調和的な全体の次元(Actuality/アクチュアリティ)の両面から成立しているんじゃないかと考えています。

ところが、僕らのものの認知のしかたというのはそうなっていない。つまり、アクチュアリティっていう諸行無常で常に動いている世界を、人は後から言語などを使ってリアリティの世界で認識しているわけです。先行するアクチュアリティの世界に常に立ち後れて、事後的に瞬間を認識する。人間というのはそうやって世界をとらえているということなんですね。

櫻井 – なるほど。人と深いところでつながっている身体的なその感覚を、効率化が進む資本主義の中でだんだんと忘れてしまうと、自分たちのエゴが前面に出る世界の中で、競争や殺し合いになってしまう。それをいったん、いやいやそうはいったって同じ人間じゃないか、という共感の世界で俯瞰した上で更にまた、エゴの世界に戻ってくると、じゃあどこまでだったらお互いのエゴをぶつけた時に、なんとなくお互い不快にならない状態で楽しく暮らしていけるのか、という話になる。これが先ほどのダイアローグの本質なのかもしれませんね。

リフレーム・ダイアローグでの川島さんのポジショントークにて)

仏教は効率主義のアンチテーゼか

川島 – そうなんです。まさにその往復なんです。仏教が効率性に対してのアンチテーゼとして位置づけられるのかどうか、ということを考えたりするのですが、仏教はダイレクトにリアリティ(効率性)に対するアンチテーゼになるというわけでもないんですよ。

弘法大使空海は、三教指帰において、儒教は世俗、すなわちリアリティを教えを説く宗教であり、道教は山に隠ってアクチュアリティの教えを説く宗教であると言い、その両者を包含するかたちで、リアリティとアクチュアリティを往復するのが仏教なのだ、と言っています。瞑想などはアクチュアリティーを感じるための手法とも言えますね。

さっきの話に戻ると、だから、私とあなたという言語で個々人が切り取られたリアリティの世界では、エゴが常に対立した状態になっているという側面を持っていて、そこで効率性を求めるのはある意味やむを得ないことではないかと思っています。そうではなくて、リアリティに固執せず、人と共感しながら、アクチュアリティの次元で互いを感じ合って、それからまたリアリティに戻ってきたその時に、効率性のパラダイムが変容するのではないかと思うんですよね。

 

身体から離れた効率主義は幸せを生むのか

櫻井 – シリコンバレーもそうですが、効率主義的なパラダイムの中で、瞑想とかヨガとか東洋哲学の考え方が広まってきているのはそこだと思うんですよね。金融を中心とした資本主義社会は、最短で最大のリターンを得るという効率がすべてという世界じゃないですか。その前提において正義がなされていることに対するアレルギー反応みたいなものが、世界中ででてきているんじゃないかと思います。

そこのずれが最近結構気になっているんですよね。実体を伴わない経済の動きが本当に幸せを生むのかどうか。

川島 – 私も、この金融資本主義が行き過ぎちゃうと経済としての「幸せ」も実現されないんじゃないかと危機を感じています。マクロ経済の全体最適っていうのは、全ての市場でメカニズムが働いて資源が再配分されているという前提だと思うんですが、しかし実際は金融市場のスピードが早すぎて、財の市場が全く追いついていない。今の金融資本主義的な考え方を見直すことがまず経済学的に求められているんじゃないでしょうか。

結局は、社会から離れてしまっているんですよね。効率性ばかりを追い求めて、僕らが身体的に感じる幸せみたいのがどんどん遠のいてしまっている。身体に直結するビジネスからはなれていくと、俺ら何やっているんだろ、お金は入ってくるけど、、、みたいな感じになってしまうんですよね。

 

人やものをきちんと「観る」ということ

櫻井 – そのビジネスと身体性っていうところでいうと、今のビジネスにおける効率というのが、人やものをきちんとみない方向に進んでいるような気がするんですよ。まさにデザイン思考における観察がすごく深く関わっているんだけど、銀行のサービスつくるんだったら、目の前のATM使っているおばあちゃんにフォーカスしてみなければ、いいATMのシステムなんてはできないんですよ。当たり前のようですけど、ビジネスにおいて、人を観るという視点がびっくりするくらい足りていない。

川島 – 僕らは常にバイアス、色眼鏡をかけてみているので、目の前で起こっていることを、きちんと「観る」トレーニングをすることが大切ですね。それが何かあたらしいものを生み出していくパワーになるのではないかと思う。

櫻井 – あと、観察という行為は、ユーザー中心のアプローチって言われるんですけど、実はユーザーを通して自分を観ているという側面もあるんですよね。つまり、ユーザという対象を通して、自分のバイアスを外して、そこにユーザーのものとも自分のものともわからないを何かを見つけるという作業だと思っています。

川島 – とある文化人類学の本で、私とあなたとか、観察者と被観察者とか、そういった感覚を越えて、これまで現実だと思っていたものが書き変わっていく、そのプロセスこそが次世代のエスノグラフィーなんだということが書かれていました。それもまた、ユーザーと深い共感が生まれたアクチュアリティーの次元において、それを通じて自分が変わっていく、という主体と客体が混ざり合っていく感覚なんですよね。

で、じゃあどうやるんだよって話なんですけど、その訓練の仕方の一つが、グーグルがやっているのような瞑想なんですよね。彼らは、対話を通して、相手のことだけでなく、自分の頭の動きまで認識する ような訓練をしているんですよ。個人的には、そういったメタ認知に着目したワールドカフェなどをやりたいですね。

櫻井 – 非常に面白いですね。デザイン思考の文脈でもそこをちゃんとやっていかないと、デザインごっこになってしまい、本当に意味のあるアウトプットがでてこないんじゃないかと思っています。本当に観察する力を考え直していきたいですね。 

川島 – 瞑想も、呼吸とか普段無意識的に行っていることを非常に具にみていくという意味で観察なんですよ。 他にも、例えば私はずっと弓道をやっていたんですが、弓道でも的に当たる状態のときは、きわめて細かく感じているんですよね。その感覚ををつきつめていって初めて「当たる」という状態に達する。

ビジネスでも、優秀な人ほどいろんなことを非常に高い精度でみているじゃないですか。神は細部に宿るじゃないけど、そういう訓練って大切なのかなと思います。

櫻井 – 私は柔道をやっていたんですが、その中で、最初と最後の中で、沈黙を通して心を律するという作業があるんですね。そうして感覚を研ぎすました上で、間合いをとったり相手の気をよむんですが、その時は、相手の動きを察知しながらも自分を俯瞰してみる、というメタ認知的なことを知らず知らずのうちにやっていたはずなんです。

川島さんの弓道もそうですが、日本の「道」とつくものは、およそそういう要素を含んでいたのではないかと思うんですよね。それを感じないまま大人になっていく世代が増えてきている気がするんですよ。だとすると、それにかわる何かを教育の中に取り組んでいかないと日本の持っている強さというのが失われてしまうような気がします。瞑想でもヨガでも、メタに考えていくという感覚を強化していくべきなんじゃないかな。

川島 – おそらく主客合一みたいな次元と関わってくるんだけど、それって能動的なことだけじゃないので体系化するのって難しいですよね。

能動的ではないというのは、「自ずとあらわれる」ということです。打撃の神様と言われた川上哲治は、「ボールがとまっている」という表現にからもわかるように、観察の精度がとても高く、ボールの動きを細かくみるトレーニングをひたすらにしたそうなんです。そのあとで、彼は「ヒットを打った」ではなく、「ヒットが出る」というんですね。

思えば僕も弓道をやっている時って、「的に当てる」ではなく「的に当たる」という状態なんですよね。デザイン思考に話を戻すと、アイデア出すのではなくて出る、イノベーションを起こすんではなくて起こるっていう状況があるんじゃないかと思いますね。

ムダを許容するということ

櫻井 – それって、ムダとされているものとどう向き合うかってことかもしれないですね。日本人はもともとそういうことを潜在的にやってきたんだけど、それがいつしか評価の中で求められなくなってきたのかもしれないですね。おそらく「ヒットが出る」ためには観察や意識の精度を非常に高めなければならないと思うんですが、効率性ばかりを追い求める中で、そのすごく丁寧な1本より、非常に雑な仕事を10本をする方を求められる世界になってしまっているのではないでしょうか。

知り合いの蒸しパン屋さんは、その日の湿度によってパンを蒸す温度をかえるっていうんですよ。ある種の職人感覚ですよね。でも科学的にみるとそんなことを考えている時間と調整する時間はムダで、それが大きな組織の中では、ある一定以上のクオリティであればokということで、もうそれで自動的にやっちゃおうよ、ということになるわけですよ。

川島 – ムダを省こうと効率性を追求して機能的分業を進めていった結果、自分たちのやっていることが、ビジネスにどう寄与していくのかわからなくなっちゃっていると思うんですよね。時には、どこの歯車かも分からないくらい、歯車になってしまっていたりする。

櫻井 – そのムダとの向き合い方は、日本企業からイノベーションが生まれてこないこととも強く関連している気がしますね。シリコンバレーの面白いところは、googleの20%ルールもそうですが、不確実性の大きい、ムダなことを許容する風土があること。アメリカなんで、効率的・合理的にやっていく社会なはずなんですけど、一方で、それだけだと行き詰まってしまうので、あえてムダとか不確実性を受け入れているんじゃないでしょうか。ダメだしで有名なスティーブジョブズのような存在も、昨日までは良しとされていたものが、いきなりぶっ壊されるなんてまさに、下の人からしたらむちゃくちゃ不確実性が高いですよね。農業やっている人の嵐みたいな話ですよね。

川島 – でも確かに、その不確実性というか、天災に近い、諦めるしかない、でも何かに向かって進んでいかなきゃならない環境とか風土を面白い会社ってもっていたりするかもしれないですね。

櫻井 – 日本でも昔はムダが内包されていたはずなんですよ。現場を見ろ、工場を歩き回れって、どう考えても効率的ではないし、えらいムダなことじゃないですか。何の成果も生まないかもしれない、でもそれを許容できる環境があったんだと思いますね。

だからそこまでくると、ムダってなんだって言う話になってきますね。今の評価軸におけるムダっていうのは、5年後に本当にムダなのかってことをよく考えた方が良いと思うんですよ。

 

江戸時代のビジネスと贈与性

川島 – 先日の小林さんのイベントで、登壇されていた奥野先生が面白いことをおっしゃっていました。江戸時代のビジネスは贈与性を持っていたというんです。クリエイティブとか面白いものに対して、お布施で、気持ちで払っていたというんですよ。よく考えれば、古来からの神や仏への捧げものもそういう考え方ですよね。

クリエイティブなものっていうのは本来、100円あげるからクリエイティブなのではなくて、生まれるかどうかわからないけれど、生まれるのではないかというその祈りにお金を払う。そういった交換ではなく贈与の中でビジネスやイノベーションが生まれていったそうなんです。

*そういえば、僕の尊敬するグラフィックデザイナーの原研哉さんも日本人の美意識について面白いことを言っていました。神社などの中枢が空っぽなのは、そこに八百万の神様が入ってくるかもしれないというその「可能性」に手を合わせることが、西洋のシンプルとは違った日本人の美意識(エンプティネス)だ、と。 - 日本人の美意識とからっぽの可能性 〜 大神神社と原研哉 〜

可能性に贈与する、不確実性と付き合う、そういった行為によって社会にエネルギーが与えられていくのかもしれませんね*

櫻井 – イノベーションということでいうと、僕は古来からあるチャンポン文化って日本の強みだと思っているんですよ。

明治維新って日本の大きな社会変革の一つだと思うんですが、明治維新をつくった人達が参考にしたのが聖徳太子の17条の憲法だったという説があるそうなんです。17条の憲法の何か凄いかというと、縄文人と弥生人の文化を共生させたこと。人類の歴史の中で、ある地域に違う人種が入ってくると、どちらから退散するか、駆逐するかというのがほとんどですが、日本は縄文人と弥生人という全く別の文化を持った人種が共存している希有な島なんだそうです。

日本人がDNAの深いところに、縄文と弥生を共存した起源に持っているとすると、それってイノベーションに必要な土壌をつくる上で非常に強みになると思うんですよね。だから、まずは外から真摯にどんどん学べばいいと思うんですよ。外から良質なもの、人を受け入れて、それを自分たちの身体に取り込み、チャンポンする力を活かしていく。 で、その学ぶ際に、やっぱり先ほどのデザイン思考的な観察、きちんと観るってことがとても大切なんだと思いますね。

 

味わい深く生きる幸せとは

川島 – ビジネスだけじゃなくて、人が幸せにいきていくためのアプローチとして、これまで話してきた文脈はとても大切なんじゃないかと思います。私の勝手な仏教理解なんですが、瞬間瞬間への意識の深さ、観察の精度を高めていくと、例えば道ばたに咲くキレイな花を味わうチャンスが増えていくわけです。そうやってリアリティとアクチュアリティーを往復することで、生を深く味わうことが幸せのヒントなんじゃないかなと思いますね。

ビジネスでも頭ででっかいことを考えて言っているだけでなくて、実際にお客さんがめちゃくちゃよろこんでいるなーという実感をもって、それを味わいながら仕事をすることってすごく大切ですよね。それが、デザイン思考が企業人の幸せをもたらす可能性なんだと思いますね。日本は、共感する力や観る力のポテンシャルが非常に高いと思うので、それを活かしていければいいですね。

 櫻井 – 僕も川島さんもそうですが、一度でもある瞬間大企業の中で歯車になったことを経験したことのある人からすれば、あの虚無感というか、ロボットになったような感覚は、やっぱり人間としておかしいじゃないですか。それに対して、身体性をもって、お客さんの喜びを感じながら仕事を進めていくのってものすごく楽しいんですよ。仕事をしているという実感、何かを考えていることの充実感を、仕事を通して味わうことができる。

もっと言うと、それがなかったらビジネスって価値があるのかなっておもったりするんですよ。何兆円のビジネスであろうと、それに関わっている人がロボットになっていて、楽しさや苦しさや難しさを感じることができないとしたら、そのビジネスの規模は意味があるのかって思います。

宗教家とか哲学者だけではなくて、現世でお金にまみれたり、人間のドロドロした部分でもがいている人達が、そういったことを考え続けるっていうのが、とても大事だなと思いますね。それを考えていかないと人間の幸せの方向に向かっていかないと思うんですよね。もうやらざるを得ないところに来ているんじゃないですかね。

 (対談終わり)

具(つぶさ)に観ていく、経験の測度を高めていく、そして人生を深く味わっていく。そういった感覚は、効率性を追求し続けた現代社会では、もしかすると少しづつ失われてきたのかもしれません。

組織の中の人達が活き活きと充実感を持って働いていけることが、企業組織のなによりの存在意義なのではなのだと思いますし、さらに言うと、そういった人間味に溢れる営みを主体的に支えていくような人々の選択(例えば消費)があってはじめて、この社会は、失われた感覚を取り戻して、また活き活きとまわっていくんだろうなと思います。

昨年7月に開かれたリオ会議でのウルグアイのムヒカ大統領のスピーチは、資本主義社会モデルへの警鐘をならしましたが、僕の周りでも、領域や言葉が全く違う人達が、根っこの部分ではみんな、なにか通じることを言っている気がします。人類が次のステージに進む為に、誰もが必死に表現しようとしているのかもしれません。

非常に刺激的な対談でした。いろいろと示唆に富み過ぎていますが、これを面白いで終わらせてしまってはもったいないですね。