世界に「あいだ」を回復させるレンマ的論理は、地球規模の生態学的危機を乗り越えるOSとなりうるか?〜<あいだ>を開く-レンマの地平/木岡伸夫を読む〜

<あいだ>を開く-レンマの地平/木岡伸夫

とんでもない本に出会ってしまった。

レンマとは、事象を区別し分けていくロゴス的哲学論理に対して、大乗仏教の縁起的・直観的に世界を把握しようとする哲学論理。大乗仏教の祖である龍樹(ナーガールジュナ)が「中論」で打ち出し、日本では哲学者・山内得立が「ロゴスとレンマ」で著した。

本書は、風土論と生命哲学を専門とした哲学者・木岡先生が、山内の立場、すなわち従来の弁証法ではなく、現象学を重視し、存在を「対立」ではなく「差異」においてみようとする立場を丁寧に解説しながら、レンマ哲学に真正面から向き合った、僕の知る限り唯一無二の書。

レンマ的論理における<あいだ>とは?

本のタイトルにもあるように、レンマ的論理の要約とも言える「中の論理」のキーワードは<あいだ>だ。

レンマ的論理は、あらゆるものごとが互いにつながり依存し合っているという大乗仏教の縁起的に世界を捉える論理である。一つの事物がそこに存在するのはそれ自らによってではなく、他に依って、他との関係において存在すると考えるのが中論の立場。

そこでは、世界をどこまでも非対立的で差異的なものの現れとしてみる姿勢、すなわちあらゆる存在をさまざまな<あいだ>においてみようとする理論的態度が前提とされている。その意味において、中(あいだ)が成立するという主張は「無自性ー空ー縁起」という論理構造に依存する。

第一章:もう一つの論理
・ロゴスの本領は異なる二つのものを異なるものとして分けることである。AAでないものは、両者のことなりゆえに区別され、分離される。そのように二者が分けられ混同されないということは、両者の中間<あいだ>が存在しないということである。

互いに否定し合う矛盾の関係にある二つのものには、中間が存在しないということが、形式論理の第3則「排中律」によって明示されている。ロゴス的な論理は、同一律・矛盾律と同時に、この排中律を絶対の原理とする。この原則を曲げることは論理自体の自己否定に他ならない。

・これに対して、龍樹の<中の論理>は、西洋の論理学者が考えることのなかった中間の意義を、独特な二重否定の論法で明らかにしている。「不生不滅」「不一不異」といった「八不」の言い回しは、Aでも非Aでもない」という両非が、ただちに「Aでも非Aでもある」という両是を導き出すといった独特な逆説を意味する。

・大乗仏教ならではのこの論理は、つまり「空」を意味する。「空」の論理とは、山内の指摘によれば、ロゴス的論理では絶対的とされる排中律を逆転する<中の論理>なのである。

・西田幾多郎や田辺元が、いずれも「絶対弁証法」を主張したように、当時の日本の哲学界には「弁証法にあらざれば哲学にあらず」といった風潮が支配していた。これに対して、山内がとりわけ重視したのは現象学である。山内にとって現象学は、存在を「矛盾」の相においてとらえる弁証法の対極にあって、存在を「対立」ではなく「差異」において見ようとする哲学的立場であった。

・レンマはギリシア語のランバノーに由来し、「直感的な把握」を表す。ロゴスが理性的な分別知であるのとは対照的に、レンマは一種の直感知である。山内が龍樹の「中論」に示された論理をもとに定式化したのは次の四句からなるテトラレンマである。

1:A(肯定)
2:A”(否定)
3:AでもなくA”でもない(肯定でもなく否定でもない)
4:AでもありA”でもある(皇帝でもあり否定でもある)

・排中律の逆転だけなら伝統的なインドの四論にも見られる。第三レンマが二重肯定を表し第四レンマが二重否定の形をとる。これに対して、山内は、両非が両是に先立つ形式こそ、レンマ的論理体系でなければならないと主張する。

こうしたレンマ的論理自体については、文末のメモ全文にて。また、中沢新一さんの名著「南方熊楠の星の時間」や「レンマ学」などにも詳しい。

なぜ現代の生態学的危機を乗り越えるのに、<あいだ>の回復が必要なのか?

そして、本書が素晴らしいと感じるのは、レンマ的論理の中身を深く紐解いていることもさることながら、そもそもなぜこうしたレンマ的論理が現代に必要なのか、つまり、なぜこの<あいだ>の回復が必要なのか、という考察だ。

地球規模の生態学的危機の根底にあるのは、人間による自然支配という単純な問題ではない。それと同時か、それに先立って、人は自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという支配・利用の構図が互いに強化し合い、幾重にも錯綜した支配ー非支配の構図が、問題を深刻化させてきた。

ロゴス的な論理が、開発を通じて近代の光の部分を拡大してきた事実を認めるにやぶさかではないが、あまりにも影の部分が大きくなった現在、ロゴスの一元的支配を破るための歯止めが見出されなければならない。その役割がレンマに課されている。

レンマ的論理を要約する「中の理論」は、人と人、人と自然の<あいだ>を回復するために不可欠である。そして<あいだ>を回復することは可能である。人間が人間である限り、他の存在とのあいだを忘却することはあっても、失うことは考えられないからだ。

とはいえ、そこに至るまでの内容は非常に難解であることには変わりないので、メモを抜粋しながら、少しだけ整理してみた。長いです…

第4章:なぜ<あいだ>が必要なのか?
・ロゴス的な論理は、区別することなく曖昧に混じりあっていたものどもの関係を、的確に見分けて整理する方法を形式化し、論理の体系に仕上げた。そういう論理が人間生活にとって有力にして有用であったこと、このことは間違いない。しかし、それが唯一の論理のあり方ではない、というのがレンマ的な論理である。

「Aでも非Aでもないが故に、Aでも非Aでもある」というあり方が、二つのものの中間である。その代表例は人間存在である。例えば、身体についてみれば、それがものなのかこころなのかははっきりしない。しかしデカルトは、思考(精神)と延長(物体)を明確に区別した。このような二元論からすれば、人間の身体は思考と延長のいづれかであるという原則により「精神なき身体」として規定されるほかないということになった。

・デカルト的な世界認識の方法・構図は、それまで不可能であったような能動的で積極的な聞き方、人間世界に対する技術的な支配を可能にした。それは、世界認識の「正しさ」ではなく、実戦に結びつく有用性が人々によって受け入れられたということを意味する。<あいだ>に関していえば、中間が存在しないということではなく、そういう中間的なものを考えない態度が、技術的実戦に必要不可欠であったというだけのことである。このことが、哲学的二元論のロゴスを近代科学の原理たらしめた根本的理由である。

・では、そもそもレンマ的論理とはいかなる意味の「論理」であったか。山内によれば、この世界は様々な「差異」に満ちてている。彼はその差異を、対立や矛盾ではなく、どこまでも差異として捉える立場をとろうとする。彼のイメージする現象学は、世界を「差異」の相のもとに眺める理論的態度を要請する考え方である。★

・世界に存在する事物Aとそれ以外のものの関係を仮にAと非Aの関係としてみれば、両者は互いに対立する。対立はその先にゆきつく先に両立不可能な関係「矛盾」を想定する。AとA以外のものの関係を矛盾と捉え、両者の相克を描き出す論理が、弁証法であった。これに対して、AとA以外のものが対立以前の差異にとどまる場合、Aでないものは非Aではなく、Aと異なるBとしてみられる。AにとってのBは差異を表し、そこには「矛盾」は認められない。

・Aと非Aの関係は、形式論理における矛盾律と排中律を前提としている。両者にとって、<中間>は存在しない。これに対して、AとBの関係は、Aがある程度までBと共通する存在であることを容認する。この関係における両者の区別は、曖昧であって、両者は分断されることなく、つながりをもつ。

・この意味において、差異は中間的なものを予想し、異なるものとものの<あいだ>が開かれている。このように、レンマ的論理では、世界をどこまでも非対立的で最適なものの現れとして見る姿勢、すなわちあらゆる存在をさまざまな<あいだ>においてみようとする、理論的態度が前提されていると言わなければならない。

・…最初に掲げたなぜ<あいだ>が必要なのかという問いに対して、ここからに一つのポジティブな回答を導き出すことができる。ロゴス的論理によって見失われ忘却されてきた<あいだ>、中間をいまこそ回復し、それによって現在の「環境危機」を克服しなければならないからだ、と。

ここでは、まず、存在を「対立」ではなく「差異」においてみようとするレンマ的論理では、あらゆる存在を<あいだ>においてみようとする。この<あいだ>はロゴス的論理では認められず、近代化社会の中で忘れ去られてきたということが語られる。

「環境」の本当に意味が<あいだ>であるとはどういうことか?

では、なぜこの<あいだ>の回復が、現在の「環境危機」の克服につながるのだろうか?その前提として、まずここで言われている「環境危機」がどういうことかを理解する必要がある。

誤解された「環境」:
・山内の説くごとく、存在を対立・矛盾ではなく差異の相の元に捉え、二元対立するものの中間、あいだを認めたらなら、具体的にどのような変化が生じるのか。デカルトが導入した「思考」と「延長」の区別からはよく知られるように、<主観ー客観>、<こころーからだ>、<人間ー自然>の二項対立が同じ意義を持つ区別として導かれる。このようにして、本質的に異なる実態が区別されてしまえば、対立する両者の中間がありえないことは明らかである。そしてそのことが「環境」の無理解につながっている、と急いで付け加えなければならない。

・なせ<あいだ>を考える必要があるのか?この問いにさしあたって一つだけ答えを与えるなら、「環境」の本当の意味を理解するためだ。

・環境と呼ばれるものは、主体である人間を中心として、それを取り囲む周囲の事物を指す。そうした常識では、環境は人間から区別される限りでの周囲の事物を意味し、人間にとって外的な存在と考えられる。しかし、このような概念自体が、近代の二元論的パラダイムの要請によって具体化した固定概念に過ぎない。それは、本来別々でないものを分断し、個別化するという所作によって、人間対自然あるいは人間対人間という形の対立を浮かび上がらせる

環境とは<あいだ>である:
・二元論に代表されるロゴス的論理をいったん棚上げして、レンマ的な論理に即して世界を見るという態度変更を行ったならどのような変化が生じるだろうか。

まず省みなければならないのは、人間と自然は<思考ー延長>、<精神ー物体>、<主観ー客観>などの形で対立するものではないという事実である。私のとっての環境は、自己から切り離され自己と対立する外部の存在ではなく、自己がそこへと伸び広がり、あたかもそれと自身が不可分であるかのごとき景色として現れてくる、ということだ。レンマ的論理は、環境を自己から独立してある芸的対象物ではなく、自己と一体不可分な面を備えたものとして見る態度を要求する。

・ここで、二種の「環境」概念を区別することがふさわしい。ロゴス的論理における「環境」=environmentは、人間から区別され、人間と対立する周囲の事物であるのに対し、milieuで表される環境は、主体である人間をうちに含みつつ、人間とある程度まで一体化した自然、というのは、一体性を持つ反面、互いに区別されるという「不一不異」が成り立つからだが、そうした自然を意味する。(milieu物理学における媒体を表すように、もともと中間を意味する)。

・レンマ的論理に立脚するのは、こうした意味であの非二元論的な「環境」=Milieu(あいだ)である。これは、人間でも自然でもないがゆえに人間でも自然でもあるような、人間と自然の「不一不異」の関係性である。

つまり、前述の「環境危機」における「環境」というのは、人間と区別されたロゴス的論理における「環境」=Environmentではなく、人と人、あるいは人と自然の中間、すなわち<あいだ>としての環境(Milieu)のことであるという。

これは、「自然なきエコロジー」の著者で自分の内側から始まるエコロジカルな時代の生き方を提示する、気鋭の環境哲学者ティモシー・モートンの思想ともつながる。

そして、和辻哲郎の風土倫理を引用しながら、「Aでも非Aでもないが故に、Aでも非Aでもある」という性質を持つ<あいだ>を、出会いの場として可能性に迫っていく。

「邂逅の論理」や「風土の論理」も著されている木岡先生ならではの展開!

・環境を単なる「自然」の言い換えとするだけでは不十分である。環境が人間主体を含み、それと一体であるということは、そこにおいて人が他の人々と交わって人間社会を形成することである。こうした意味での人間化され主体化された環境は、自然であるとともに、人間同士の繋がり、つまり社会でなくてはならない。和辻哲郎は、こうした人間的・主体的自然を二元論における対象としての自然環境から区別して、「風土」と呼んだ。本書はこの考え方にしたがい、environmentから区別される意味での「環境」を、「風土」と言い換えることにする。レンマ的論理に沿って風土を扱う学問が「風土学」である。

・西洋哲学・倫理学の外部に位置しながら、独自の倫理学体系を築いた和辻にとって、人間存在の時間的・空間的構造は、歴史と一体をなす風土において成立する(和辻, 2007)。今問題にしているような文脈からいえば、歴史的環境である風土は、人間存在から独立に存在する抽象的な空間ではあり得ない。歴史と相即する風土は、人と自然、人と人の中間、<あいだ>に成り立つというべきである。

・とりあえずまとめておくなら、私が甲となり、汝が乙となるべく、出会いの場が用意された空間、それが人間の風土である。

・しかし、こうした考えに対して、間柄などにとらわれない自由な個人によってこそ、他者との対等な関係がつくられるのだ、といった反論の出てくることが予想される。

・独立な個人ABを想定した場合、両者は一つの空間のうちにある。人は普通、自己に固有の空間をテリトリーとして所有する。いま、そうした固有の空間領域を「場所」と呼んでおく。すると、ABはそれぞれの場所をしめつつ相対すると考えられる。ABは独立の個人的主体であるから、両者が出会うためには、Aの場所がBに向かって開かれ、同じくBの場所がAに向かって開かれなければならない。こうしてはじめて、共通の場所が成立し、それが二人の出会うところ、<あいだ>となる。その場所が両者の<あいだ>となる条件はなんんだろうか。

・一方のみの所有でなく、他方にも開かれていること、他者がそこを自由に訪れることができるということである。そのようにひらかれた<あいだ>は、したがってAのものでもBのものでもなく、それゆえにAのものでもBのものでもある、といった性格の場所でなければならない。

・自由な個人的主体同士が出会うためには、最初に、それぞれ固有のものであった場所と自己との排他的なつながりを断ち切る、という手続きを経ないわけにはいかない。それは、自己が他から独立した主体である、という個人主義的な前提そのものの否定を意味する。近代的主体のありようを要約するなら、誰もが「自己身体の内へと閉じた個体」である、ということに尽きよう。

つまり、私と汝が明確に区別されるロゴス的二元論の世界では、ここに言われている「出会い」というのはそもそも存在しない。AのものでもBのものでもなく、それゆえにAのものでもBのものでもあるという<あいだ>があってはじめて出会いが生まれるということだ。

人と自然の<あいだ>を取り戻す本当の意味とは?

では、人と自然についてはどうだろうか?
本書では、人と自然の<あいだ>を回復させることの重要性について下記のように続く。

・自然が人間意図って単なる外敵対象の集合体でしかないなら、人と自然に中間的な<あいだ>は成立しない。それとは反対に、レンマ的論理の観点に立つなら、人と自然は「不一不異」の関係とならざるをえない。

・ハイデガーが環境的自然の道具的側面を重く見たことに対して、日本の風土における自然の直接的な働きを身近に経験してきた和辻は、自然の示す他者的性格に注意を促している。台風や地震、津波といった大災害は、自然が普段人々に占める親しげな様相を振り捨てて、いつでも暴力的な<他者>に転じうる。人と自然の<あいだ>が考えられうるのは、このこと、すなわち、人と自然は一体的であるとともに一体的でないという「不一不異」にある。

・産業化の道を進む人間は、外部の自然を<資源>として利用し、個は産業社会における欲望の主体としてふるまい、市場に自己利益を実現しようとする。近代社会が、その欲望の充足対象を外部に求め、外部世界に進出していった経緯は、資本主義発展の歴史そのものである。非支配の対象となる外部社会の人々は、欲望の客体であるという点において、利用される自然、つまり<資源>とパラレルな存在である。ここに、人は自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという、二重の支配・利用の構図が浮かび上がる。

・人と人、人と自然の<あいだ>を認めないロゴス的論理の帰趨が、近代世界の破局ともいうべき環境危機に見てとれる。だとすれば、問題解決の前提となる態度変更をうちだす道が検討されることが必要だろう。それが、「<あいだ>を開く」という本書の執筆動機である。

この主張にはハッとする。そう、人が自然を支配の対象とすることの背後には、実は人が人を支配の対象としてしまうことが隠れていて、逆もまた同じであるという。それは、おそらく今の時代を生きる私たちの誰もがその危険性を内にはらんでいるはずであろう。

だとすれば、その根本にある態度を乗り越えるには、あらゆる存在をさまざまな<あいだ>においてみようとする、レンマ的論理の態度が不可欠だということなのだ。

ただし、こうした近代化の危機に対して、山内はロゴス的論理を否定し、レンマ的論理と対立させたいわけではないという。

・ここまで指摘したような問題に対しては、むろん近代思想の枠内でも、一定の反省に立った取り組みが行われている。例えば、人間と自然の関係に焦点を合わせ、近代的二元論を基本的に踏襲しながら、その関係を再構築しようとする「環境倫理学」。

・かつての倫理学は人間だけを相手にする人間中心主義であったが、今や人間以外の自然をも含めた倫理的共同体における振る舞いを考えねばならないという態度変更が、環境倫理学の論者によって提唱されている。ただし、みようによってはなはだ倒錯した現象(例えば、「人間中心主義」から「自然[生態系]中心主義」への転換)がそこから生じている。「倒錯」という理由は、ロゴス的二元論の骨格自体をなんら変えることなく、主客の関係項だけを入れ替えると言ったことがみてとれることである。★

・二元論によって、延長的事物が思惟実態としての精神から切り離されたことの必然的な帰結である。一方に主体がいれば、他方には客体が存在する。このロゴス的な区別を維持する限り、人間中心の構造は、「人間非中心」を標榜する新しい倫理学であっても、主客の位置だけを入れ替えるに留まらざるを得ない。

・問題は、レンマ的論理とロゴス的論理をいかに噛み合わせるかにある。それは、山内がつとに説いた如く、「東西論理思考の統合」を実現することである。先に挙げたテトラレンマは、ロゴスを排除することではなく、4つのレンマの相関のうちにロゴスの立場を包摂するものであった。★

つまり、どんなに自然を含めた倫理的共同体における振る舞いを考えようとしても、人間と自然の<あいだ>を認めないロゴス的論理を拠り所としている限り、近現代社会が直面する危機は乗り越えられないのではないか、というのが著者の主張だ。

山内が龍樹の「中論」に示された論理をもとに定式化した4句のレンマ的論理(テトラレンマ)は、ロゴスの立場をその内に包摂するものである(テトラレンマについては、文末のメモ全文を参照)という点で、「東西論理思考の統合」の実現を目指したものである、と。

実際、山内は、最後の著書「随眠の哲学(山内,2002)」において、存在の根拠が「因果(因って)」、「縁起(縁って)=相依相待」に続く、第三の存在根拠を「自由(由って)」=スピノザのいう「自己原因」)に求めており、

・存在と存在の根拠の関係を問うためにはどうしても「存在の論理」を経由しなければならないというのが、山内の立場であった。西洋形而上学における<根拠>への視線に自らを同化させ、存在論的な反省を敢行しなければならない。このことは、東洋思想の圏内にとどまるだけで不可能である。西洋哲学研究者としての山内にとって、レンマ的論理の世界にはその種の反省が欠如していると受け止められたのではないだろうか。このことが、「ロゴスとレンマ」の「即の論理」から、「随眠の哲学」の「即非の論理」へとさらに一歩を進めようとしたことの主要な理由であったと考えられる。

と書かれている。まさに、東西論理思考の統合を目指したということなのだろう。

ここで、ようやく冒頭のメッセージに戻ってくる。

地球規模の生態学的危機の根底にあるのは、人間による自然支配という単純な問題ではない。それと同時か、それに先立って、人は自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという支配・利用の構図が互いに強化し合い、幾重にも錯綜した支配ー非支配の構図が、問題を深刻化させてきた。

ロゴス的な論理が、開発を通じて近代の光の部分を拡大してきた事実を認めるにやぶさかではないが、あまりにも影の部分が大きくなった現在、ロゴスの一元的支配を破るための歯止めが見出されなければならない。その役割がレンマに課されている。

レンマ的論理を要約する「中の理論」は、人と人、人と自然の<あいだ>を回復するために不可欠である。そして<あいだ>を回復することは可能である。人間が人間である限り、他の存在とのあいだを忘却することはあっても、失うことは考えられないからだ

繰り返しになるが、17世紀以降の近代科学革命以降、人が自然を支配の対象としてきた背後に、人は自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという幾重もの支配ー非支配の構図が隠れているのかもしれないそれは、おそらく今の時代を生きる私たちの誰もがその危険性を内にはらんでいるはずであろう。

そして、それを乗り越えていくための根本的な態度転換となるのが、<あいだ>が開かれたレンマの地平線ということなのだ。

ということで、そもそもなぜこうしたレンマ的論理が現代に必要なのか、という視点で少し内容を整理してきたが、これでもこの本のごく一部分でしかない笑。

山内が龍樹の「中論」に示された論理をもとに定式化した4句のレンマ的論理(テトラレンマ)始め、その背後にある「即の論理」「中の論理」「アナロギアの論理」「即非の論理」「故の論理」などを、アリストテレス、現象学、西田哲学、鈴木大拙、ハイデガー、ベルクソンの「生の哲学」、文化史家・倫理学者・和辻哲郎の風土倫理学、生物学者ユクスキュルの環世界 etc..などなど人類が積み重ねてきた様々な哲学や思想とのつながりを整理しながら、紐解いている。

非常に丁寧に解説がされているものの、とても難解であることには変わりないので、この先何度も立ち返り、学び直すであろう一冊。

最近、中沢新一さんの「レンマ学」(これも素晴らしい著書)が出たこともあり、「レンマ」という言葉の認知がすこし広がりはじめたようにも思うが、ぜひお供にしたい。

(なお、この投稿自体、理解が不十分な箇所も多分にあると思いますので、ご指導・ご指摘いただけたら幸いです)

〈あいだ〉を開く―レンマの地平 (世界思想社現代哲学叢書)

レンマ学

ーーーー以下、メモ全文ーーーー
※すべて筆者が独断と偏見で抜粋をした備忘メモです。詳しくは原書を読むことをおすすめします。

・ロゴス的でない哲学論理とは、インドに起こった大乗仏教の祖である龍樹(ナーガールジュナ)が「中論」で打ち出した論理の方であり、日本の哲学者山内得立(やまのうちとくりゅう)はそれを「レンマ的思考」と呼んでいる

・ロゴス的というのは、簡単に言えば、モノと物とをはっきり区別し、分けてゆく態度のことである。これに対して、分断することのできない事物の<あいだ>を認めるのがレンマ的思考。

・あらゆる物事が互いにつながりあい位依存し合っているという「相依相対」の考え、大乗仏教の中心にある縁起説である。

・ロゴスの本領は異なる二つのものを異なるものとして分けることである。AとA出ないものは、両者のことなりゆえに区別され、分離される。そのように二者が分けられ混同されないということは、両者の中間<あいだ>が存在しないということである。互いに否定し合う矛盾の関係にある二つのものには、中間が存在しないということが、形式論理の第3則「排中律」によって明示されている。ロゴス的な論理は、同一律・矛盾律と同時に、この排中律を絶対の原理とする。この原則を曲げることは、論理自体の自己否定に他ならない。

・これに対して、龍樹の<中の論理>は、西洋の論理学者が考えることのなかった中間の意義を、独特な二重否定の論法で明らかにしている。「不生不滅」「不一不異」といった「八不」の言い回しは、「Aでも非Aでもない」という両非が、ただちに「Aでも非Aでもある」という両是を導き出すといった独特な逆説を意味するー大乗仏教ならではのこの論理はつまり「空」を意味する。「空」の論理とは、山内の指摘によれば、ロゴス的論理では絶対的とされる排中律を逆転する<中の論理>なのである。

◯もう一つの論理

・西田幾多郎や田辺元が、いずれも「絶対弁証法」を主張したように、当時の日本の哲学界には「弁証法にあらざれば哲学にあらず」といった風潮が支配していた。これに対して、山内がとりわけ重視したのは現象学である。山内にとって現象学は、存在を「矛盾」の相においてとらえる弁証法の対極にあって、存在を何よりも「差異」において見ようとする哲学的立場であった。

・レンマはギリシア語のランバノーに由来し、「直感的な把握」を表す。ロゴスが理性的な分別知であるのとは対照的に、レンマは一種の直感知である。山内が龍樹の「中論」に示された論理をもとに定式化したのは次の四句からなるテトラレンマである。

1:A(肯定)
2:A”(否定)
3:AでもなくA”でもない(肯定でもなく否定でもない)
4:AでもありA”でもある(皇帝でもあり否定でもある)

・排中律の逆転だけなら伝統的なインドの四論にも見られる。第三レンマが二重肯定を表し第四レンマが二重否定の形をとる。これに対して、山内は、両非が両是に先立つ形式こそ、レンマ的論理体系でなければならないと主張する。

・大乗仏教的な二重否定(両非ないしは両否、これを山内は絶対否定と呼ぶ)

差異・対立・矛盾:
・山内がその「アナロギアの論理」を着装する上で、最も多くを参照したと考えられるのはアリストテレスの著作。「弁証法と現象学」では、存在するものの関係を「対立」「矛盾」「差異」のアリストレレスの考え方を紹介。

・山内が傾倒したのは、存在を矛盾的関係においてみようとする弁証法とは対照的に、「存在の差異的形態を対立的関係において研究する」現象学であった

即の論理:

・「ロゴスとレンマ」が参照する「中論」の核心的主張は、排中律を逆転する<中の論理>にある、西洋哲学のロゴス的論理によっては、中の境位は実現しない。

・<中の論理>の核心は、第三レンマ(二重否定)から第四レンマ(二重肯定)への転換で在り、それを山内は「即の論理」と呼ぶ

・第三レンマと第四レンマは肯定でも否定でもないから、肯定でも否定でもある、という論理的関係にある。ただし、前者を前提とすることによって後者の結論が出てくるわけではないから、、それは推論ではない。また、前者と後者が対立・矛盾の関係にあるがゆえに、媒介されて統合に達するわけでもないから弁証法でもない。「即の論理」における否定は媒介作用ではなく、前者から後者への移行は、即時に成立する直接的な体験、直接体験で具体的な事実である。しかし、そこに成り立つ直接的な知は、果たして「論理」の名に値すると言えるのか。★

・「即とは分かたれたものが同時にあり、分かたれてあるままに一であることである」

・弁証法における媒介が時間の作用として考えられているのに対して、肯定と否定の両立は一つの空間を必要とする。対立する二項を時間における矛盾ではなく、空間における差異としてみるとき、第3・第4のレンマの間に不即不離の関係が生じる、と考えて不都合はないだろう

・矛盾律・排中律は、生成を時間の相のもとにとらえるという大前提において、存在理由を持つ。それとは反対に、空間的な観点に立つことによって、時間的見地からは両立し辛いものの並立が可能となる。互いに矛盾対立するものの両立する論理空間が、そこに成立することによって、「即の論理」は<中間を開く>と考えられる。★

・「中論」の世界は、全てを空間的多様性の相において、眺める視線によって成立する世界である。★

・金剛般若経における釈迦の言葉「生きているものというのは、実は生きているものではないと如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ」

・弁証法における媒介が時間の作用として考えられているのに対して、肯定と否定の両立は一つの空間を必要とする。対立する二項を時間における矛盾ではなく、空間における差異としてみるとき、第3・第4のレンマの間に不即不離の関係が生じる、と考えて不都合はないだろう

・矛盾律・排中律は、生成を時間の相のもとにとらえるという大前提において、存在理由を持つ。それとは反対に、空間的な観点に立つことによって、時間的見地からは両立し辛いものの並立が可能となる。互いに矛盾対立するものの両立する論理空間が、そこに成立することによって、「即の論理」は<中間を開く>と考えられる。★

・「中論」の世界は、全てを空間的多様性の相において、眺める視線によって成立する世界である。★

・金剛般若経における釈迦の言葉「生きているものというのは、実は生きているものではないと如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ」

◯中の論理~大乗仏教の視圏:
・西洋世界が古代ギリシアにおいてユークリッド幾何学とアリストテレスの形式論理学に代表される厳密な論証法を確立したのに対し、インドは問答法、中国は修辞法の段階に留まったという

・西洋期限の形式論理が排中律によって中間的なものを否定するのに対し、「空の論理」は対立する二者の中間を容認する。しかしその立場は、存在を無から捉える存在否定の立場であり、それも単に優を否定する無にとどまらず、その否定をも否定する「絶対否定」の立場である

・「不生不滅」といった両非の論理がなぜ成立しうるのか。生ずることにはその鯨飲があり、滅することにも然るべき理由がある

・因果があるということも、ないということも。同時に否定されるという意味で、両非の論法が成立する。果は因より生ずる(A)のでも、果は因より生じない(非A)のでもない、とする第三のレンマが成立する。そこからしてただちに、果は因より生ずる(A)とともに、果は因より生じない(非A)という両是の論理、第四レンマが成立する。この否定から肯定への全面的転換こそが山内が「即の論理」と称するものである。★

・そして「即の論理」が同時に<中の論理>でもあるのは、そこに物事の存在が他との関係性によってのみ考えられるという思想、大乗仏教特有の演技思想を前提とすることによってである★

・全ての物事が演技的関係においてあるということは、それ自体としての本質を持たない、すなわち空であるということである。「一つの事物がそこに存在するのはそれ自らによってではなく、他に依って、他を待って、他との関係において存在すると考えるのが中論の立場であった」。★その意味において、中(あいだ)が成立するという主張は「無自性ー空ー縁起」という論理構造に依存する。

・「不一不異」に関わる議論としてよく知られているのが中論・第十章「火と薪の考察」だ。

・火と薪の関係は、同一でもなく別異でもない。もしこの二つが同一なら、薪に点火する必要はなく、火は絶えず燃え続けるであろう。しかし、火と薪が全く別のものであるなら、どうして火を薪に転じることができるだろうか。火と薪は同一でもなく、異なったものでもないからこそ、火が薪に点じられて燃えるということが起こりうる。

・火が現に燃えつつあるとはどういうことか。薪が薪としても得ることはなく、火は単に火として燃えることもない。火に薪が点じられることによって初めて燃えるということは、それぞれが互いに他を待って、他に依って、自己の存在を表すこと(相依相待)を意味する。しかし、両者が相待的である関係において、火と薪は別々のものでなければならない。しかし、そうした自性にとどまる限り、両者は独立であって燃えることは生じない。火と薪はそれぞれが自性を持つと同時に失うことによって、すなわち同一性を保つとともに同一性を失うことによって、はじめて両者の関係ー燃焼の事実ーが成立する。

・これは、自己と他者の関係にそのまま当てはまる。

・自己とは何であるか。それはそれ自らであって、他ではないことであるが、そういうことそれ自らがすでに他との関係を含んでいる。自己はただ事故によって規定せられ得ぬ。いわんや自己として確立することはできない。自己は他によって、または他を待って初めて自己としてあり得るのである。

・自他の相待というあり方は自性を肯定しかつ否定する(無自性である)という矛盾を表している。しかし、自他が「不一不異」のレンマ的構造をもつということは、単純な相互依存関係のみではなく、相互排除的な関係も意味するという点で、矛盾の内容は一層多重的で複合的とならざるを得ない。

・燃焼の事実にいおいて、火と薪はそれぞれの独立性を失って結合し、一体化する。火と薪は相互に依存しつつ、相互肯定的な関係にある。しかるに、火が燃えていくとは薪を減少させていくことであり、逆に火が消えかかっていくとは薪の減少が否定されることである。つまり、火の肯定は薪の否定を、火の否定は薪の二重否定つまり肯定を意味する。これは最初の相互肯定とは異なり、一方の肯定が他方の否定に通じるという反対の関係、矛盾的対立というべきあり方を示している。

・さらに、火が一層燃え盛っていった場合、薪は小さくなる。火の肯定、薪の否定が進行して、ついに薪が燃え尽きた時、薪は完全に否定される。しかしそれは、火の肯定ではなく、火の消滅を意味する。これは、火の側からすれば、自の肯定、他の否定が、自己否定にいきつくということに他ならない。その反対に、火勢が弱まり消えかかっていくならば、火の否定が薪の肯定につながることになる。しかし、もし火が消えてしまい、火の否定が成就したならば、そこには薪もまた存在せず、ただ木片が転がっているに過ぎない。こうして自己否定の極に行き着いたなら、それと同時に、矛盾対立の関係にあった他も亡び去る結果となる。

・「相互対立における両者は対立を残していない限り、自ら自己を滅ぼしてしまう結果を招く」ことになる。

・すべての事物が、本質あるいは自己存在を持たず、他の全てと関係し合うあり方が、そのものの無自性すなわち空を意味する。そのように相互依存的かつ相互排除的な両面を持った「相依相待」の関係が縁起の構造である。<縁起ー無自性ー空>によって一切を説明する、という大乗仏教の論理がこうして浮かび上がる。このような論理構造が「レンマ的論理」だとすれば、その性格は西欧世界のロゴス的論理とは全く異なるものと言わなければならないだろう。

縁起と因果:

・龍樹における「絶対否定」の論理は、その裏面に一つの積極的な主張を含んでいる。

・それは、個別の実態が存在しないとする実態否定を通じて、あらゆるものが相互に依存し、互いに他を待って成立するという相依相待、縁起の思想である。

・因果と縁起の相違。第一に、因果の関係は原因と結果の間に生じる必然的関係にある。これに対し、無自性を原理とする縁起の関係性は「此あれば彼あり、彼に依って此がある」という関係を意味する。それは必然的というよりは、偶然的な関係に過ぎない。袖振り合うことを多生の縁とする仏教的な関係性はまさにそれが生じないことも可能であった、という点において、偶然性を意味する。

・第二に、ロゴスの必然性が成り立つには因と果がそれぞれ独立であることを前提とするが、縁起は相依相待の関係でありそれぞれの自性は成り立たない。

第三に、因果が一方的であるのに対し、縁起は交互的である。自然現象の因果関係を時間的と捉えるなら、縁起の関係は同時的であり、空間的であるという見方ができる。何かに「縁って」何かがあるという関係を基本と見るなら、縁起は因果よりも広大な関係性を表すと考えることができる。ここから山内は、閻魔的な縁起はロゴス的な因果をそのうちに含む、より根本的で広範な関係であると位置付ける★

3つの「よって」ー 故の論理:

・第一の因っては、原因から結果が生まれる因果の関係を表す。第二の依っては、縁って拠ってとも共通する「相依相対」の関係を表す。つまり縁起の関係である。これらに対して、第3の由っては、存在根拠を他ではなくそれ自らにおいて有する自由のあり方を意味する

・「随眠の哲学(山内,2002)」は、存在の根拠が因果でもなく演技でもなく、「自由」であることを主張する。存在が「自らに由って」あるとは、他に存在に依存することなく、スピノザのいう「自己原因」に依って存在するということである。故に存在の根拠は無である。ここには、存在の原因ではなく、理由を求める思考が働いている。存在の理由は、存在の内側にありそのものがあるべくしてある、ということを意味し、存在を根拠づけるものは無と考える他にない。此を山内は「故の論理」と呼ぶ。★

・存在が自己のうちに根拠を持つということは、他の何かに「因って/縁って」存在するのではなく、自らに「由って」あること、すなわち自由を意味する。その存在は、他の存在との因果や縁起によってではなく、「自己原因」によって存在する。つまり、存在は存在するがゆえに存在する。ここから山内はただちに存在の根拠は無であると主張する。

・存在と存在の根拠の関係を問うためにはどうしても「存在の論理」を経由しなければならないというのが、山内の立場であった。西洋形而上学における<根拠>への視線に自らを同化させ、存在論的な反省を敢行しなければならない。このことは、東洋思想の圏内にとぞ丸だけで反不可能である。西洋哲学研究者としての山内にとって、レンマ的論理の世界にはその種の反省が欠如していると受け止められたのではないだろうか。このことが、「ロゴスとレンマ」の「即の論理」から、「随眠の哲学」の「即非の論理」へとさらに一歩を進めようとしたことの主要な理由であったと考えられる。

◯即非の論理 ~東西の<統合>へ~

・山内は、最後の著書において、「般若思想から即非の論理へ」の理路を辿りつつ、「即非」における「非」を「東洋思想の極意」とする主張に到達する。

・金剛般若経で示される「般若の論理」では、釈迦の言葉「生きているものというのは、実は生きているものではないと如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ」、つまり「Aは非AであるからこそAである」という言い方で、矛盾律が平然と破られている。どうしてこのような逆説がなりたつのか。

・般若の思想において存在と非存在とが同一視せられるのは決して論理的にではなく、むしろ場所に近接しているからだエアル。…存在することは決して存在しないことを原因とするのではなく、存在と非存在とが直観的に近接しているところから両者が結合するのである。

・難解だが、ここにはレンマ的な無が県警するという。第三レンマは、肯否の区別がそこから生ずる根源的な無、「絶対無」である。つまり、「レンマ的無は、ロゴス的有無を超越して、それらを共にその中に成立せしめる」。それを表すのが、「否」や「不」ではなく「非」なのである。

・「非」の否定は単なる否定ではなく、否定を否定する絶対的否定である。例えば、「非人情」は単純な人情の否定ではなく、人情の肯否を超える立場、いうならばある種の超俗的境地の開毛を意味する。肯定か否定かの二者択一を超えるがゆえに、肯定も否定も排除しない、といった「非」の在りようは、東洋的な思想になじんだ人々にとってはそれほど遠い境地ではない。近代化が一時的にそれを忘れさせているだけだ。夏目漱石の草枕の冒頭フレーズはそのことに気づかせてくれる。

・山内の思想については、存在に関する二種の<あいだ>が認められることになる。第一の「因って」が意味するものは、原因と結果の完全な独立制で在り、そこには<あいだ>は不在である。しかし第二の「縁って/依って」が表すのは、あらゆる存在の相依相待としての関係性である。このような縁起の構造が表すものは、存在と存在の<あいだ>である。これに対して、第三の「由って」が表す存在の理由は、西洋のロゴス的論理の世界で培われた<根拠>への視線に関係するもので在り、ここkには存在と存在の根拠の<あいだ>が考えられる。

・西洋形而上学にとって、存在の究極の根拠は神やイデアと呼ばれるような絶対者であり、そこで認められるのは「存在論的差異」(ハイデガー)として定式化される、存在と存在者の<あいだ>である。しかしレンマ的無が存在の根拠となる東洋的な「即非の論理」においては、<あいだ>は「非」とされる絶対無と存在(者)について成立するものとなる。

・形式論理学においては、Aと非Aが対立の関係に置かれ、肯定命題と否定命題についての排中律が成立する。対立を命題から存在の関係に移してみた場合、とりわけ近代の人間と人間、人間と自然は人間対立の枠組みに入れられ、異常なまでの緊張関係に置かれてきた。

・地球規模の生態学的危機の根底にあるのは、人間による人間支配という単純な問題ではない。それと同時か、それに先立って、人間の人間支配が環境破壊を促進するとともに、人間支配が翻って自然支配を強化するといった形で、幾重にも錯綜した支配ー非支配の構図が、問題を深刻化させてきた。ロゴス的な論理が、開発を通じて近代の光の部分を拡大してきた事実を認めるにやぶさかではないが、あまりにも影の部分が大きくなった現在、ロゴスの一元的支配を破るための歯止めが見出されなければならない。その役割がレンマに課されている。★

・レンマ的論理を要約する「中の理論」は人と人、人と自然の<あいだ>を回復するために不可欠である。そして。<あいだ>を回復することは可能である、人間が人間である限り、他の存在とのあいだを忘却することはあっても、失うことは考えられないからだ。★

◯なぜ<あいだ>が必要なのか?

・ロゴス的な論理は、区別することなく曖昧に混じりあっていたものどもの関係を、的確に見分けて整理する方法を形式化し、論理の体系に仕上げた。そういう論理が人間生活にとって有力にして有用であったこと、このことは間違いない。しかし、それが唯一の論理のあり方ではない、というのがレンマ的な論理である。

・なぜ<中の論理>が必要なのかという問いに先立って、なぜ中間を排除する論理が、人々の思考を強力に規制し続けてきたのかという疑問に答える必要があるだろう。

・「Aでも非Aでもないが故に、Aでも非Aでもある」というあり方が、二つのものの中間である。その代表例は人間存在である。例えば、ここの身体についてみれば、それがものなのかこころなのかははっきりしない。しかしデカルトは、思考(精神)と延長(物体)を明確に区別した。このような二元論からすれば、人間の身体は思考と延長のいづれかであるという原則により「精神なき身体」として規定されるほかないということになった。

・デカルト的な世界認識の方法・構図は、それまで不可能であったような能動的で積極的な聞き方、人間世界に対する技術的な支配を可能にした。それは、世界認識の「正しさ」ではなく、実戦に結びつく有用性が人々によって受け入れられたということを意味する。<あいだ>に関していえば、中間が存在しないということではなく、そういう中間的なものを考えない態度が、技術的実戦に必要不可欠であったというだけのことである。<あいだ>を考えることよりも、考えないことの方に有益さがある。このことが、哲学的二元論のロゴスを近代科学の原理たらしめた根本的理由である。

・では、そもそもレマン的論理とはいかなる意味の「論理」であったか。山内によれば、この世界は様々な「差異」に満ちてている。彼はその差異を、対立や矛盾ではなく、どこまでも差異として捉える立場をとろうとする。彼のイメージする現象学は、世界を「差異」の相のもとに眺める理論的態度を要請する考え方である。世界に存在する事物Aとそれ以外のものの関係を仮にAと非Aの関係としてみれば、両者は互いに対立する。対立はその先にゆきつく先に両立不可能な関係「矛盾」を想定する。AとA以外のものの関係を矛盾と捉え、両者の相克を描き出す論理が、弁証法であった。これに対して、AとA以外のものが対立以前の差異にとどまる場合、Aでないものは非Aではなく、Aと異なるBとしてみられる。AにとってのBは差異を表し、そこには「矛盾」は認められない。★

・Aと非Aの関係は、形式論理における矛盾律と排中律を前提としている。両者にとって、<中間>は存在しない。これに対して、AとBの関係は、Aがある程度までBと共通する存在であることを容認する。この関係における両者の区別は、曖昧であって、両者は分断されることなく、つながりをもつ。

・この意味において、差異は中間的なものを予想し、異なるものとものの<あいだ>が開かれている。このように、レンマ的論理では、世界をどこまでも非対立的で最適なものの現れとして見る姿勢、すなわちあらゆる存在をさまざまな<あいだ>においてみようとする、理論的態度が前提されていると言わなければならない。

・…最初に掲げたなぜ<あいだ>が必要なのかという問いに対して、ここからに一つのポジティブな回答を導き出すことができる。ロゴス的論理によって見失われ忘却されてきた<あいだ>、中間をいまこそ回復し、それによって現在の「環境危機」を克服しなければならないからだ、と。

誤解された「環境」:

・山内の説くごとく、存在を対立・矛盾ではなく差異の相の元に捉え、二元対立するものの中間、あいだを認めたらなら、具体的にどのような変化が生じるのか。デカルトが導入した「思考」と「延長」の区別からはよく知られるように、<主観ー客観>、<こころーからだ>、<人間ー自然>の二項対立が同じ意義を持つ区別として導かれる。このようにして、本質的に異なる実態が区別されてしまえば、対立する両者の中間がありえないことは明らかである。そしてそのことが「環境」の無理解につながっている、と急いで付け加えなければならない。

・なせ<あいだ>を考える必要があるのか?この問いにさしあたって一つだけ答えを与えるなら、「環境」の本当の意味を理解するためだ。そう言っても良いだろう。

・環境と呼ばれるものは、主体である人間を中心として、それを取り囲む周囲の事物を指す。そうした常識では、環境は人間から区別される限りでの周囲の事物を意味し、人間にとって害的な存在と考えられる。しかし、このような概念自体が、近代の二元論的パラダイムの要請によって具体化した固定概念に過ぎない。それは、本来別々でないものを分断し、個別化するという所作によって、人間対自然あるいは人間対人間という形の対立を浮かび上がらせる★

環境とは<あいだ>である:

・二元論に代表されるロゴス的論理をいったん棚上げして、レンマ的な論理に即して世界を見るという態度変更を行ったならどのような変化が生じるだろうか。

まず省みなければならないのは、人間と自然は<思考ー延長>、<精神ー物体>、<主観ー客観>などの形で対立するものではないという事実である。私のとっての環境は、自己から切り離され自己と対立する外部の存在ではなく、自己がそこへと伸び広がり、あたかもそれと自身が不可分であるかのごとき景色として現れてくる、ということだ。レンマ的論理は、環境を自己から独立してある芸的対象物ではなく、自己と一体不可分な面を備えたものとして見る態度を要求する。★★

・ここで、二種の「環境」概念を区別することがふさわしい。ロゴス的論理における「環境」=environmentは、人間から区別され、人間と対立する周囲の事物であるのに対し、milieuで表される環境は、主体である人間をうちに含みつつ、人間とある程度まで一体化した ーというのは、一体性を持つ反面、互いに区別されるという「不一不異」が成り立つからだがー 自然を意味する。(milieu物理学における媒体を表すように、もともと中間を意味する)。★

・レンマ的論理に立脚するのは、こうした意味であの非二元論的な「環境」=Milieu(あいだ)である。これは、人間でも自然でもないがゆえに人間でも自然でもあるような、人間と自然の「不一不異」の関係性である。

・環境を単なる「自然」の言い換えとするだけでは不十分である。環境が人間主体を含み、それと一体であるということは、そこにおいて人が他の人々と交わって人間社会を形成することである。こうした意味での人間化され主体かされた環境は、自然であるとともに、人間同士の繋がり、つまり社会であなくてはならない。和辻哲郎は、こうした人間的・主体的自然を二元論における対象としての自然環境から区別して、「風土」と呼んだ。本書はこの考え方にしたがい、environmentから区別される意味での「環境」を、「風土」と言い換えることにする。レンマ的論理に沿って風土を扱う学問が「風土学」である。★

・西洋哲学・倫理学の外部に位置しながら、独自の倫理学体系を築いた和辻にとって、人間存在の時間的・空間的構造は、歴史と一体をなす風土において成立する(和辻, 2007)。今問題にしているような文脈からいえば、歴史的環境である風土は、人間存在から独立に存在する抽象的な空間ではあり得ない。歴史と相即する風土は、人と自然、人と人の中間、<あいだ>に成り立つというべきである。

・ロゴス的思考にしたがうなら、私と汝は空間において異なる位置を占めることによって明確に区別される。人間存在の空間的構造において、人と人は最初から独立の個人として相対するのではなく、一定の社会的役割(間柄)を演じつつ、互いに一体であるという事実を提示する。

例えば、封建社会における君臣の間柄は、彼らの振る舞いを規定する武家社会の空間構造によって規定されていた。また、夫婦の間柄は、夫婦となる固有の空間、家族社会において成立する。このように存在と存在の交わる場によって規定されるとともに、またそうした場を含む空間のあり方を規定する。

・とりあえずまとめておくなら、私が甲となり、汝が乙となるべく、出会いの場が用意された空間、それが人間の風土である。

・しかし、こうした考えに対して、間柄などにとらわれない自由な個人によってこそ、他者との対等な関係がつくられるのだ、といった反論の出てくることが予想される。

・独立な個人AとBを想定した場合、両者は一つの空間のうちにある。人は普通、自己に固有の空間をテリトリーとして所有する。いま、そうした固有の空間領域を「場所」と呼んでおく。すると、ABはそれぞれの場所をしめつつ相対すると考えられる。ABは独立の個人的主体であるから、両者が出会うためには、Aの場所がBに向かって開かれ、同じくBの場所がAに向かって開かれなければならない。こうしてはじめて、共通の場所が成立し、それが二人の出会うところ、<あいだ>となる。その場所が両者の<あいだ>となる条件はなんんだろうか。

・一方のみの所有でなく、他方にも開かれていること、他者がそこを自由に訪れることができるということである。そのように開かれた<あいだ>は、したがってAのものでもBのものでもなく、それゆえにAのものでもBのものでもある、といった性格の場所でなければならない。

・自由な個人的主体同士が出会うためには、最初に、それぞれ越ゆのものであった場所と自己との排他的なつながりを断ち切る、という手続きを経ないわけにはいかない。それは、自己が他から独立した主体である、という個人主義的な前提そのものの否定を意味する。近代的主体のありようを要約するなら、誰もが「自己身体の内へと閉じた個体」である、ということに尽きよう。

・では、人と自然についてはどうだろうか。

・自然が人間意図って単なる外敵対象の集合体でしかないなら、人と自然に中間的な<あいだ>は成立しない。それとは反対に、レンマ的論理の観点に立つなら、人と自然は「不一不異」の関係とならざるをえない。

・ハイデガーが環境的自然の道具的側面を重く見たことに対して、日本の風土における自然の直接的な働きを身近に経験してきた和辻は、自然の示す他者的性格に注意を促している。台風や地震、津波といった大災害は、自然が普段人々に占める親しげな様相を振り捨てて、いつでも暴力的な<他者>に転じうる。人と自然の<あいだ>が考えられうるのは、このこと、すなわち、人と自然は一体的であるとともに一体的でないという「不一不異」にある。

・産業化の道を進む人間は、外部の自然を<資源>として利用し、個は産業社会における欲望の主体としてふるまい、市場に自己利益を実現しようとする。近代社会が、その欲望の充足対象を外部に求め、外部

世界に進出していった経緯は、資本主義発展の歴史そのものである。非支配の対象となる外部の社会は、欲望の客体であるという点において、利用される自然、つまり<資源>とパラレルな存在である。

・ここに、人は自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという、二重の支配・利用の構図が浮かび上がる。★

・人と人、人と自然の<あいだ>を認めないロゴス的論理の帰趨が、近代世界の破局ともいうべき環境危機に見てとれる。だとすれば、問題解決の前提となる態度変更をうちだす道が検討されることが必要だろう。それが、「<あいだ>を開く」という本書の執筆動機である。★

環境の倫理とは何か:

・ここまで指摘したような問題に対しては、むろん近代思想の枠内でも、一定の反省に立った取り組みが行われている。例えば、人間と自然の関係に焦点を合わせ、近代的二元論を基本的に踏襲しながら、その関係を再構築しようとする「環境倫理学」。

・かつての倫理学は人間だけを相手にする人間中心主義であったが、今や人間以外の自然をも含めた倫理的共同体における振る舞いを考えねばならないという態度変更が、環境倫理学の論者によって提唱されている。見ようによってはなはだ倒錯した現象(例えば、「人間中心主義」から「自然[生態系]中心主義」への転換)がそこから生じている。「倒錯」という理由は、ロゴス的二元論の骨格自体をなんら変えることなく、主客の関係項だけを入れ替えると言ったことがみてとれることである。★

・二元論によって、延長的事物が思惟実態としての精神から切り離されたことの必然的な帰結である。一方に主体がいれば、他方には客体が存在する。このロゴス的な区別を維持する限り、人間中心の構造は、「人間非中心」を標榜する新しい倫理学であっても、主客の位置だけを入れ替えるに留まらざるを得ない。

・問題は、レンマ的論理とロゴス的論理をいかに噛み合わせるかにある。それは、山内がつとに説いた如く、「東西論理思考の統合」を実現することである。先に挙げたテトラレンマは、ロゴスを排除することではなく、4つのレンマの相関のうちにロゴスの立場を包摂するものであった。★

◯生きたものの論理~西田幾多郎の<生の論理学>~

・<生>の領域は、形式論理の同一律および矛盾律にもとづく弁別・分析を受け付けにくい独特の性格を帯びている。無生物の世界に妥当する、Aか非Aかの二者択一に対して、Aでも非Aでもない、といった中間的で曖昧な様相を呈するのが、生きたものの世界だからである。

・例えば、マクロな個体の水準において性から死に至る過程のある段階が、「脳死は人の死か」をめぐって議論されてきた。「脳死」や「心臓死」が並び立つ状況において、見ようによっては生でもしでもありうる割り切れなさが、法的原則にそのまま従おうとしない人々の態度がみてとれる。そこには、テトラレンマにおける第三・第四レンマの連関 ー山内のいう「即の論理」ー が見えない次元で働いていると見みなすこともできそうである。

・レンマ的論理は、どこまでロゴス的論理と折り合うことができるのか。ベルクゾンなどの「生の哲学」が日本に入り込んで有力となる19世紀後半に、この葛藤を生き抜いた人物の生々しい証言として西田哲学の全体を例に引くことができるだろう。生(生命)を論じる上で、過去の西洋哲学の論理が十分でないと知り、「純粋経験」以後に独自の理論装置を開発していった西田だが、一方では、最後に彼が最終的な立場とした弁証法的論理は、ロゴス的な論理の枠内に彼が留まらざるを得なかったことを示している。

「純粋経験」からの出発:
・「禅の真理をなんとか論理的に表現したい」というのが西田の念じるところであった。それは、精神的・身体的実践にとどまっていた禅的経験自体を変えること、非言語的な経験を「哲学的」言語であわらされる経験へと「改造」することを意味する。それは、西洋哲学の論理的言語によって表現されるように、自己の経験そのものを作り変えていく手続きを要求する。この手続きによって面目を新たにする改造された経験を「純粋経験」と呼ぶところから西田哲学の歩みが始まる。

・なぜ西田は、このような考えから出発したのか。いずれ「改造」されるにせよ、経験は、それを対象化(言語化)瀬ぜうにそのものとして捉えた時点での「直接経験」としては、「主客未分」であるほかない。その時点における(とりわけ禅仏教的な)経験は言葉を超えている。とはいえ、言葉を超えた経験が、それ自らの在り用を歪めることなく語り出せたなら、そうした経験は、それについての語りを含めて「経験の自己発展」ということができる。その意味において、経験自体は発展変化するけれども、基本的に「純粋」である

・まず「純粋経験」として語られる経験は「無」の経験であった。無とは、存在すつものについて、「~がある(ない)」のような肯定判断ー否定判断の対立によって考えられる無は「相対無」である。

無は対象化しては考えられない(対象化された場合、全ては有である)が、なんらかの状態・作用を含む事柄として考えられる。

・禅の修行に努めた西田の場合、対象としての無ではなく、自己体験そのものに無が親しく関わっていた。それは「無意識」「無念無想」「無我の境地」と言い表されるようなある種の充実した経験で在り、「主体的無」というべきものである

生の時間性・空間性

・簡単にいうならレンマ的な無の経験をロゴス化しようとする努力が「純粋経験」以後の西田哲学の論理的展開を導いた。

・まず、生に固有な時間性を考えてみる。時間が絶えざる変化であることは、生きたものに即して理解される。生命が時間的であることと、時間が生命的であることは互いに切り離して考えることはできない。この二つの事柄を同時に把握する認識とは、生きたものが自ら、それ自身のうちに時間と生命の一致を感じ取る直感の働きである。生の体験とは、したがって、生命体によって内から生きられる変化に他ならない。

・だが、運動変換事実が、同一律と矛盾律になじまないことは、周知のゼノンのパラドックスに明らかである。同一律によってのみ存在を解釈する「抽象の哲学」に留まるとき、哲学は運動変化の現実を否定する結果を導きざるを得ない。

・こうした論理重視の立場に対して、例えばベルクソンは、連続的変化である生の持続を、概念的分析による説明ではなく、メタファによるイメージとして提示する<語り>の立場である。だが、西田は、ベルクソンのように論理を忌避せず、形式論理には合致せず、同一律・矛盾律を侵犯する生成変化や運動の事実をすすんでロゴス的論理の埒内に囲い込もうとする。「非連続の連続」「矛盾的自己同一」である。★

・「肯定的なると共に否定的」とされる矛盾を含む変化の事実を、「論理」によってすくいあげようとする姿勢が「矛盾的自己同一」という西田独自の用語をもたらした。それは、中期以降の西田が、矛盾を根本原理とする弁証法に積極的にコミットする方向をとったことを物語る。

〈あいだ〉を開く―レンマの地平 (世界思想社現代哲学叢書)

レンマ学