マツタケその3:スケーラビリティ、撹乱化のビジネス、潜在的コモンズとLife-affirming(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Tsing, 赤嶺淳)
「マツタケ 不確定な時代を生きる術」をめぐるマツタケ雑記その3。
今回は、本書を読み解く上での重要なキーワード「スケーラビリティ」と「潜在的コモンズ」について。
ー本記事の目次ー
・スケール拡大に向かわないという希望
・サルベージ・リズム – 撹乱化のビジネス
・潜在的コモンズの4原則
・マツタケを待つことは、実存の問題である
・終わりに
【まつたけ雑記:マツタケ 不確定な時代を生きる術(Anna Tsing, 赤嶺淳)】
・マツタケその1:生命と経済の絡まり合い、進歩を前提としない資本主義、マルチスピーシーズによる世界協働構築
・マツタケその2:汚染という可能性、自己完結しない脆弱な個、マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅
・マツタケその3:スケーラビリティ、撹乱化のビジネス、潜在的コモンズとLife-affirming(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Ting, 赤嶺淳)
スケール拡大に向かわないという希望
著者はスケーラビリティを「プロジェクトの枠組みを全く変化させずに、円滑にスケールを変えることができる能力」と定義した上で、「マツタケで思考することに僅かにでも望みがあるとすれば、スケールを拡大しないこと」だと語る。
どういうことだろうか。
その1でも書いた通り、マツタケは宿主樹木(ホストツリー)との種間関係の中で育つために、人工的に栽培することができない。このノンスケーラビリティこそがマツタケの不安定な世界に分け入っていく鍵になる。そして、進歩という概念とも分かち難く結びついている。
スケールにまつわる諸問題
・マツタケで思考することに僅かにでも望みがあるとすれば、スケールを拡大しないことだ。このことを肝に銘じ「アンチ・プランテーション」としてのマツタケの森に分け入ってみよう。
・スケールの拡大を良しとするのは、何も科学に限らない。進歩それ自体が、しばしば骨組みを変えずにプロジェクトを拡張していく能力によって定義されてきた。この資質をスケーラビリティ[規格不変性]とよぼう。
・スケーラビリティは、プロジェクトの枠組みを全く変化させずに、円滑にスケールを変えることができる能力である。
・例えば、スケーラブルなビジネスは、スケールを拡大しようとも組織体制を変化させる必要はない。ビジネス関係が変化しない(つまり「汚染」されない)時にだけ、これは可能となるのであって、ビジネスに新たな関係が付与されればビジネスは変化する。
・同様に、スケーラブルな研究プロジェクトは研究枠組みに適合するデータだけを受容する。スケーラビリティは、プロジェクト内要素間の出会いに内在している不確定性を無視することを要求する。
このスケーラビリティは多様性の議論とも関係してくるのだが、著者は「スケーラビリティは自然が持つ通常の特性ではない」とし、スケーラビリティの代表事例であるヨーロッパ諸国の植民地におけるプランテーションと対比させながら、本書の主題であるマツタケ山のノンスケーラビリティ(規格不能性)に踏み込んでいく。
・スケーラビリティは、自然が持つ通常の特性ではない。
・スケーラビリティの代表事例であるヨーロッパ諸国の植民地におけるプランテーション。例えば、16-17世紀のブラジルのサトウキビプランテーション。それらの偶発的な構成要素ークローンの苗木、強制労働、征服されてひらかれた土地ーは、疎外と互換性、拡張がいかに先例のない利益をもたらすかを明らかにした。
・マツタケ山と対比してみよう。サトウキビのクローンとは異なり、他の種との変形関係がなければ、マツタケは生存できない。マツタケはある種の樹木と共生する土壌菌類の子実体=キノコである。
・宿主樹木ホストツリーの根との共生関係を通して、菌は炭水化物を獲得する。マツタケのおかげで、肥沃な腐食土がなく、痩せた土地でも宿主樹木は育つことができる。その見返りとして、マツタケは宿主樹木から栄養を提供してもらう。
・この変形的相利関係こそが、マツタケを人工的に栽培できない理由である。..マツタケはプランテーションの条件を拒んでいる。マツタケには、互いに汚染し合う相関性と森の動的な複数種間の多様性が必要なのである。
★ ★ ★
互いに汚染し合う相関性と森の動的な複数種間の多様性。
これこそまさにマツタケのマルチスピーシーズ・ワールドである。
だが、ここで留意したいのは、スケーラビリティ=悪で、ノンスケーラビリティ=善という構図を仮定していないことだ。「規制されていない伐採者は、科学的な管理を思考する林務官よりも、より迅速に森林を破壊することができる」からだ。
これこそ、近現代産業文明化の中でスケーラビリティのみが重視されてきた(ノンスケーラビリティが忘れ去られてきた)理由の一つだろう。倫理的な振る舞いを管理できないノンスケーラブルなプロジェクトの一人歩きを社会はゆるせなかったのである。
・不安定性で思考するのが難しいのは、スケーラビリティを形成するプロジェクトの方法が、景観と社会を変質することを理解しながら、同時に、どこでスケーラビリティが失敗するかーどこで、ノンスケーラブルな生態的・経済的な関係性が噴出するかを見極めなければならないからである。両方の履歴に留意することが鍵である。
・しかし、スケーラビリティが悪で、ノンスケーラビリティが善だと仮定することは大きな間違いである。
・ノンスケーラブルなプロジェクトも、その効果においては、スケーラブルなものと同様にひどいものになりうるからだ。規制されていない伐採者は、科学的な管理を思考する林務官よりも、より迅速に森林を破壊することができる
ここで重要な指摘は、スケーラブルな産業的森林が瓦解した後のカスケード山脈の土地においてマツタケはノンスケーラブルな地域森林経済を活性化したように、マツタケの取引と生態がスケーラビリティとその瓦解の両方に依存しているということだ。
つまり、ノンスケーラビリティを有するマツタケのビジネスと生態は、スケーラビリティ以前のどこかの段階に発生した原始的なものではなく、スケーラビリティの結末、つまり産業的林業の荒廃に起因するものであるということである。
・だが、マツタケ・ビジネスを原始的な生存策としてみるのは間違いであろう。これは進歩しそうに歪められた誤解である。マツタケの取引は、スケーラビリティ以前のどこかの段階に発生したものではなく、スケーラビリティの結末、つまり瓦解に起因するものである。
・オレゴンのマツタケ狩りの多くは、産業的経済活動から弾かれた人びとであり、森林それ自体はスケーラビリティを伴った産業の残骸である。マツタケの取引とマツタケの生態は、スケーラビリティとその瓦解の両方に依存しているのだ。
・スケーラブルなプロジェクトとノンスケーラブルなプロジェクトのあいだの主要な特徴は、倫理的な振る舞いではなく、むしろ後者がより多様性に富んでいるということである。
・なぜならば、ノンスケーラブルなプロジェクトは、拡張に向けてエンジンをふかさないようになっているからである。ひどくもなりするし、温和なものにもなりうる。両端を行き来する存在なのである。
両者は陰陽のように動的なダイナミズムの中で一体となっている。ここに、二元論的な資本主義否定ではない、一元論的な展開のヒントがあるのではないかと思う。
人類が文明を軌道修正することができるとすれば、進歩や規模の思想から抜け出した、無数のマイクロアントレプレナーシップ・マイクロプロジェクトによる社会システムの分散的代替にかかっていると思っているのだが、その観点からもノンスケーラブルなプロジェクトは「拡張に向けてエンジンをふかさない(それゆえ多様性に富んでいる)」というのは非常に重要なポイントだ、
新古典派経済学にしろ集団遺伝学にしろ、近代社会の土台が「進歩=拡大」という枠組みに囚われたまま構築されてきたことはこれまで本書でも指摘されてきた。
ここで思い出すのは、ピーター・センゲが引用していたマザーテレサの言葉だ。
現代の大きな悲劇の1つは、みんな、自分がどれだけ「大きなこと」をやっているかに捉われるあまり、本当に実現し得ることに比べて、あまりに少しのことしか成し遂げられていないことです。大きな仕事、小さな仕事なんてありません。「過去」や「未来」が存在しないのと同様、ただの概念にすぎません。その「大きなこと」「小さいこと」にすっかりとらわれているのが、私たちのエゴなんです。
僕たちは規模や大きさへの強迫観念が強烈に訓練されているばかりか、それだけが唯一の物差しだと自分たちが想像している以上に思い込んでしまっている。そしてそれは、「過去」「現在」「未来」がきれいに並ぶ直線的な時間観と密接につながっているだろう(裏を返せば、それぐらい根っこにこべりついているものでもあるといういことだ)。
だからこそ、ノンスケーラブルなプロジェクトを(倫理的な振る舞いを崩壊させることなく)適切に回復させ、人間の社会システムを無数の生命の絡まり合う網目から切り離すことなく再構築していくことができるかが現代を生きる僕らに問われていると言えるだろう。マツタケのような資本主義の周縁に生成されていくノンスケーラブルな営みはそこから自由になり、不安定性の中で多面的にひらかれていく術を教えてくれるのかもしれない。
サルベージ・リズム – 撹乱化のビジネス
スケーラビリティに関連してもう一つ。
上記でみたようなスケーラブルとノンスケーラブル間の相互交流について、本書では Salvage Capitalism(サルベージ的資本主義)という言葉が使われている。
本書の註釈によるとサルベージとは次のように書かれている。
「沈没船の引き上げ」を意味し、そこから「再生利用するために回収される廃品」という意味も派生する。動物が腐肉をあさったり、人間がゴミをあさってまだ使えるものをあつめるスカベンジをイメージする言葉としてのサルベージを用いている
具体的な事例をみてみると、
・ボルネオ島のあるコミュニティで、かつで豊かな森林に囲まれていた。そこへ製材会社がやってきて森を伐ってしまった。森がなくなるとボロボロの機械の山を残して会社は去っていった。もはや森林でも製材会社でも、いずれでも生計をたてることができなくなった住民は、機械を分解し、鉄屑を売るようになった。
・この話はサルベージの両面性を要約している。一方では、じぶんたちの森が交配したにもかかわらず、人々が生きる術を見出したことを讃えたくなる。他方では、屑鉄がいつまでもつのか引き続き生存を可能とする他のものが崩壊した土地に十分に残されているのかについては心配せずにはいられない。
とある。
・20世紀のほとんどの期間、多くの人々はビジネスは進歩の脈を躍動させるものだと考えていた。事実、ビジネスは、常に拡大し続けてきた。人々は、資本を持たない普通の人々でさえ前のめりなビジネスの脈に自分たちのリズムをあわせていかなければならないように感じていた。これにはスケーラビリティが作用した。人間と自然は、拡大し続ける定式の単位と化すことによって、進歩に加わることができた。
・経済システムは…スケーラビテリティと拡大を進歩とみなす20世紀的な概念に直結しているのである。こうした抽象的概念の優雅さに惑わされ、建前では経済システムが組織しているはずの世界を、より深く吟味していくことの重要性を唱える人は稀で有る。
・人間が崩壊した環境の中で生き延びるために、わたしたちは、進歩という前向きな単一のリズムで脈打つものが無ければ、気まぐれなサルベージ・リズム(周期)にゆだねるしかない。★
いまいち掴みづらいが、資本主義が荒廃した後の土地から資源を取り出し、価値に転換していくような行為のことをサルベージ的資本主義と呼んでいるのではないかと思う。
このあたりはまだ著者も模索途中の様な印象も受けたが、個人的に面白いと感じたのは、このサルベージという行為は自然界の循環の中ではごく自然に行われているということだ。食物連鎖のみならず、微生物による分解や栄養循環も含めて、あらゆる生命は生命を育む方向に向かって連環していく(翻訳を進めているRegenerateive Leadershipではこの原理原則をlife-affirmingと呼んでいる)。
ゴミや廃棄というのも生命の絡まり合いから自らを切り離してきた人間社会が創り上げてきた概念であるわけだし、そうした疎外から逸脱(生命の網への回帰)できた時、サルベージの持つ意味ももう少し広がっていくのではないだろうか。
潜在的コモンズの4原則
マツタケ物語の最後に、「潜在的コモンズ」としてのマツタケの可能性についても記載しておきたい。
制度化され得ない疎外のなかで生じる潜在的な共有財のことで、マツタケのように至る所(例えば土中)にあるかもしれないが誰も気づかない、あるいは未発達のコモンズという意味で「潜在的(latent)」という言葉が使われているようだ。
本書では潜在的コモンズの4原則というのが語られている。
潜在的コモンズは、排他的な人間だけの飛び地ではない
生き物は、ただ単にお互いを食べ合うだけでなく、さまざまに生態系を形成する。潜在的コモンズは、そうした相利共生的および反目し合わない絡まり合いである
潜在的コモンズは、全ての人にとって良いわけではない
協働は誰かに居場所を提供する一方で、誰かを排除したり、種の全体性が失われてしまうこともある。私たちにできることは、必要にして十分な、まずまずの世界 ー常に不完全で、修正の途上にある世界ー を目指すことである。
潜在的コモンズは、うまく制度化できない
潜在的コモンズの躍動する様は、制度化・政策化で捉えることは難しい。潜在的コモンズは常に法の隙間に入り込む。違反や感化、無関心ーそして密猟ーがそれを助長する。
潜在的コモンズは、私たちの失敗を埋め合わせることはない
潜在的コモンズは、今この場所で困難の渦中にあり、人間は決して管理できない
本書の目的は、コモンズ論の是非を論じることではない。土壌中に潜む菌糸のように、未だコモンズ(子実体)として認識されていない潜在的なるものの可能性を問うのである。
否定系で定義される4つの原則。
なかなか興味深い。
この潜在的コモンズという概念の優れたところは、そもそも所有という概念が存在する手前の世界に僕たちを連れていってくれることだ。
当然、最近再び盛り上がっているコモンズ論に戻ってくるわけだが、「コモンズの悲劇」と名付けてしまったことが悲劇だと誰かが言っていた。まさにそうだと思う。
現代の二元論的な見方からは、コモンズという概念は所有とのコントラストを想起させてしまうと思うのだが、本当はコモンズとはもう少し名付けえないコモンズようなものだったのではないかと仮説している。潜在的コモンズという概念はまさにそこを照らしてくれるのかもしれない。
マツタケを待つことは、実存の問題である
そのマツタケという潜在的コモンズに働きかけるのが京都の「マツタケ十字軍」だ。
・マツタケは、人智を超えた自然のプロセスについて、思い至らせてくれる。私たちは全てのものを修復することができない。例え私たち自身が破壊したものでさえも、だ。しかし、だからといって無気力さに苛む必要はない。
・自分たちの行動によって、(土壌中のマツタケ菌が活性化され、マツタケが発生するような)潜在的コモンズが活性化していくことを期待している。実際には、(自分たちでマツタケを作り出すことはできないという意味で)コモンズを創造することはできないとわかっているにしても、である。
・マツタケが出るかどうかを待つことは、実存の問題である。
・ある活動家は、自分が生きているうちにはマツタケは出てこないかもしれないことを悟っている。彼がなしうることは、せいぜい、林を撹乱し、マツタケが出てくる古語を念じるだけだ。
・なぜ、景観に働きかけることが、新たな可能性を喚起させてくれるのだろうか。どうすれば、生態系だけでなく、人々をも変化させうるのだろうか。
・小規模な撹乱が人間と森林の両方を疎外から離脱され、重なり合った生活様式を構築していくことを待望している。そんな環境では、菌根に特有な相利共生的変形が、まだ可能かもしれない。★
人はマツタケを支配できない。
それ故、マツタケが出てくることを待つことは、実存の問題である、と。
先にも紹介したRegenerative Leadershipという本(現在翻訳中)の「Life-affirming」という箇所にこんな一説がでてくる。
Life creates conditions conductive for life
生命は生命そのものを育む条件を創り出す(仮訳)
リジェネラティブ・リーダーシップには「生きた生命システムの中で起こる創発をコントロールすることはできないが、それが生み出されていく環境条件を整えていくことはできる」という考え方があるのだが
潜在的コモンズとしてのマツタケの意味することはまさにこれに近いのではないだろうか。
直接的に創造することはできなくとも、潜在的コモンズを活性化することを期待して、里山に手を入れ、自らもその関わりを楽しみ、それが現れるのを長い時間軸で待つ。
こうした態度こそ、文明の虚構の影に人類が忘れてしまってきた態度なのかもしれない。
人が自然の全てをコントロールできると過信し(たとえ、直接的にそう考えていなくとも、現代社会システムはそうした哲学論理が基盤になっている)、直線的な時間観の中でスケーラビリティ、すなわち進歩と拡大へと極端に偏重してきたツケが色々なところでマグマの様に噴き出している中、
ティモシー・モートンが指摘したように、COVID-19は人類を人智の及ばない不気味なネットワーク引き戻してくれた。そこで生じているのが、人間存在のアイデンティティ危機、マルチスピーシーズ人類学的に言うなれば、人間は人間という単一種であるという確固たる(と思っていた)事実の崩壊なのだ。
※なお、このあたりはEMF21で行った篠原雅武さん&ナイルケティングさんのセッション「ダークエコロジーの共鳴領域」のレポートもあわせてぜひ。
(余談だが、個人的にはマルチスピーシーズ人類学の、生命的絡まり合いに閉ざされず、非生命(とされている)存在との絡まり合いに迫っていく可能性に着目したい)
終わりに
ということで、気づけば3回に渡る投稿になってしまった。
新年早々鼻風邪をひき、妻と娘が元気にお出かけしている中お留守番タイムができたことをいいことに、書き溜めていた読書メモを整理し出したらとまらなくなってしまいました。長文・乱文・駄文のオンパレードの中、最後までお読みいただき有難うざいます。
最後に、このマツタケの物語を読み終えた時のメモ書きを。
「わたし」を強烈に訓練された現代社会で、いかに自己完結せずにいられるか。
他者や世界に対する弱さと脆弱性をさらけだした不安定性の真っ只中でも、心を失わずに、生命の絡まり合いの実感を祝福しながら、生きていくことができるのだろうか。
僕たちは今、生命システムと動的にダンスし、人ならざる存在や生命の、いや、非生命も含めた複雑で不気味な絡まり合いから生成されるメッセージに応答し続ける態度を取り戻していく最後のチャンスに直面している。
そうした態度を取り戻してはじめて、人類は人と自然という二元論的見方に絡みとられることなく、生命世界の環の中で幾分もマシな社会(societes of multispicies)が再構築されていくことができるのかもしれない。
それは、中沢新一さんのいう「客観的な観察者としての立場を手放した先に、おもむろにひらかれる世界」であり、
建築家でありパターン・ランゲージの生みの親 クリストファーアレグサンダーのいう「自身の感覚そのものが生命の計測器になる」という態度であり
マルチスピーシーズ民族誌で指摘されてきたSeriously taking、つまり「内在的な観点からの内部観測(of=対象としてではなく、with =共に考える)」であり、
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の世界であり、
南方熊楠がひらこうとした新たな学問の姿なのではないだろうか。
その頃にはきっと、マツタケをめぐる物語、マルチスピーシーズによる世界協働構築プロジェククトが新たな展開をみせていることを願うばかりである。
【まつたけ雑記:マツタケ 不確定な時代を生きる術(Anna Tsing, 赤嶺淳)】
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