古典から読み解く「自他非分離の共同体感覚」とは?(変調 「日本の古典」 講義 / 安田登・内田樹)

変調「日本の古典」講義 – 身体で読む伝統・教養・知性 – / 安田登・内田樹

能楽師・安田登さんと武道家・内田樹さんの対談本。

「昔の人の心身のうちに想像的に入り込む」ことを専門とするお二人ですから、「この二人が読み直すと古典はこんなに面白い」っていう帯文がこれほどしっくりくる本はないですね。

「鎮魂儀式」としての能の基本構造

・権力が「まつろわぬもの」たちを殺していくというのは、能の基本的な物語の骨格ですね。この滅びたものたちをシテに擬して、彼らがいかにして殺されるに至ったのか、そのプロセスを詳細に描き、その恨みを語らせる。これが鎮魂儀式としての能の基本構造です。

・ユダヤ神秘主義には「写字」を通じてトランスするという技法があるんです。斎戒沐浴して深夜一人ヘブライ語の聖なる文字を儀礼に乗っ取って書いていると超越的ビジョンが到来して、体内に神のエネルギーが流入するらしい。

・土着の日本人にとっては、魂が身体を一時的に遊離した状態が「萎ぬ」であり、そんな状態はあるけれども、永続的な「死」というものはなかったのではないか。

・仏教は「古事記」の編纂よりもずっと前に日本に入っていました。ところがなかなか広まらない。そりゃそうです。死や因果のアイディアが血肉化されていないければ仏教の教えは腑に落ちない。日本はこれから仏教を中心に国家を作っていこうとしている。そんな時に太安万は、日本古来の神話と感じを結びつけつつ仏教的な死生観をいつの間にか浸透させてしまおうという驚くべきアイディアを思いつき、それを実践した。そう思うのです。

・死ぬときは必ず横に馬か水気のものがある。源平の「死のコスモロジー」ってきっとそれですね。バイクに乗るというのは、自我の拡大感覚と異類とのコミュニケーションですから

・人と自然のあいだを媒介するものがいて、そこから自然のエネルギーを取り込む技術は世界中にある。その媒介物を何に選ぶかに種族の特性が反映する。

森羅万象に仏性をみる日本の「山川草木悉皆成仏」

・明治政府のイデオローグは「神道が土着のもので、仏教が外来だから、仏教を廃絶すべきだ」と考えたけれど、これは話がまるで逆で、日本固有の宗教性を際立たせたいと本気で思っていたのなら、「神仏習合が土着的で、一神教が外来ものだから、一神教的なものを退ける」というふうに推論するのが正しいのです。神仏分離というアイディア自体が非日本的だったわけで、だらか廃仏毀釈は日本人には受け入れられなかった

・「山川草木悉(しつ・ことごとく)有仏性」は中国にもありますが、日本ではさらにそれが「山川草木悉皆成仏」という思想に昇華されます。森羅万象に仏性をみるという態度は、日本列島のモンスーンの自然が人間に対してそれだけフレンドリーだったからでしょう。生物学的多様性があって、よく雨が降って、森が深くて、植生が豊かで、動物や人間を養うだけの豊かな資源があった。こういう人間に対して融和的な環境はヨーロッパでは例外的ですから。

・カオスをコスモス化したいという欲求は古代中国にもあって、それを古代の日本政府も律令として取り入れました。それらは人工的・コスモス的なものでしたが、それ以外のみちは、今でもマタギのみちとかサンカのみちとかありますが、能の時代では何と言っても山伏と遊女の道です。山伏たちによって演じられる芸能の担い手でもあり、彼らの道はその芸能の道でもありました。彦山、伯耆の大山、白さん、館山、富士の御獄、更に上って出羽三山。そして比叡山、月を経由して、なんとヒマラヤまで連なるという壮大な道です。

定住民文化と遊行民文化の二重構造

・それに対して、当時の裏日本であった太平洋側を通る遊女の道、白拍子の道というものがあったはずなんです。「ひとつの家に遊女も寝たり」という芭蕉の句があるように、その道を旅する遊女がいて、可能ジョッちと出会ってしまう物語というのがあって、それが例えば能の「江口」になったのではないかと。

・日本文化は定住民文化と遊行民文化の二重構造になっているみたいですね。他の領域でも大体そうですね。土着と外来、定住と遊行の二重構造になっている。ですから、能の中に農民って一人も出てこない。ところが狂言には農民がたくさん出てくるんです。能の詞賞に「百姓」という言葉は出てきません。それは、能楽師側からの定住文化に対する違和感と距離感の表れなんでしょう。

「四十にして不惑」の真の意味は自分に区切りをつけるな!だった

・論語を身体感覚で読み始めたきっかけは、論語を孔子の生きていた時代の文字に直して読もうと思い立ちました。紀元前500年くらいの文字です。そうしたら、論語の中の漢字のおよそ80%が身体もじ、つまり文字の中に身体の一部あるいは全部が含まれる文字だということです、ほとんど身体に即した文字なのです。これはもっと身体的に読まなければならないだろうと思いました。

・そして、もう一つは、今の論語では使われているけれども、孔子の時代にはまだなかったという文字がたくさんあったのです。特に目立つのは「心」を含む文字が少ないことですね。有名な「四十二して惑わず」の「惑」という字は孔子の時代にはまだなかったんです。

・「或」という字は矛で場所を区切るというのが原意です。ですから、「不惑」は「不或」で、区切らず。自分に制限をつけない、という意味になるんです。とすると、この40歳において孔子は「小成に甘んずるな、もう一度自分の枠をはずせ」と教えているというのが安田さんの解釈なんですね。「40になったらもう迷うな、生き方を変えるな、腰を落ち着けろ」というのとは全然逆じゃないですか。

・漢の時代には、すでに論語が国家的な宗教として取り入れられます。その時、孔子を聖人として祭り上げたかった。そのために普通の人は40で惑うけれど孔子は惑わなかった程の偉い人なんだというのを見せたかったのではないでしょうか。国家宗教とするために、意図的なミスリーディングが始まった、と。

「六芸」は人間の理解せざる世界ににじみ出すボーダーコントロールの技術

孔子の深さは「六芸」という思想にも示されていると思います。礼、楽、射、御、書、数の、この順番に僕は興味が湧いたんです。

・礼というのは、人知の及ぶ限界を確定する時の、一番遠い線のことだと僕は思います。「この世には存在しないもの」とか変わるための技術知。礼を通じて初めて人間は「この世に存在するもの」との適切な関わり方を学ぶ。これは僕の実践的確信です。

「この世に存在するもの」だけと関わってい他のでは、「この世」の仕組みは決して見えてこない。(中略)この世の仕組みについて一望俯瞰的に見る能力が君子にとって最優先に開発すべき資質であるわけですが、そのためには「この世ならざる視座」「鬼神」の視座からこの世を眺めることができなければならない。礼は神霊鬼神は人に何を求めているのかを訊ねることですけれど、それができるためには、この世の利害損失の枠組みからいったん出て、人間ならざるものの眼を通して人事を見ることができなければならない。礼というのはそのための技術知だったのではないかというのが僕の理解です。★★★

・メロディにしてもリズムにしても、僕たちがそれを聞き取ることができるのは、「もう聞こえなくなった音」がまだ聞こえ、「まだ聞こえない音」がもう聞こえるからです。音楽を聴くためには、「もう過ぎ去った時間」を手元に引き止め、「まだ到来していない時間」を先取りする能力が必要です。それができないと僕たちは音楽を享受することができない。ですから、楽もまた「この世に存在しないもの」、すなわち「消え去った時間」と「未だ到来せざる時間」を現実のうちにくり込む技術を要求しまう。そして、この過去と未来にできるだけ遠くまで延長できるものほど音楽から享受できる愉悦は大きくなる。★

・海部と飼部の時にふれましたけど、武具兵器というのは自然の強大なエネルギーを人間の世界に導き入れる導管のようなものです。それを通じて自然の強大なパワーを現実世界に発言できるように、身体を整える技術のことです。

・「射」は剣や槍を使う技術とは大きな違いがあります。それは、「的は向こうから襲ってこない」ということです。ですから弓の技術は「こう攻撃されたら、どう反応するか」という反応の枠組みでは語ることができない。そうではなくて、自分の全身をモニターする。どこに詰まりがないか、強張りがないか、痛みがないか、緩みがないか、或いは見落とされた空白がないか、それを全身の内外について点検する。

この世界を成り立たせるためには、「世界になじまないもの」「この世の秩序にまつろわぬもの」をどこかで押しとどめなくてはならない。でも、それは絶えず隙間を見つけては漏れ出してくる。完全に封印してしまうことは余計危険なので、ちょろちょろ漏れ出すくらいの適量に「恐るべきもの」の流入を制御する。そのボーダーコントロールには高度の専門能力が必要で、それが六芸なんです。

社会はその内部に外部に通じる小さな開口部を必要とする

・リベラルアーツというのは、普通はヨーロッパ中世にできた自由七科(文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文学、音楽)だという解釈をする人が多いんですけれど、僕は孔子の「六芸」の方が日本人にとってはずっとリベラルアーツの本旨に近いんじゃないかとおもたんです。

あらゆる社会はその内部に、「外部に通じる小さな開口部」を持っていなければならない。それは共同体が生きていくためにどうしても必要なものだと思うんです。そして、この「開口部」であることがリベラルアーツたる所以である、ですからそのリベラルアーツの有用性について「世界の内部的な言語」で一意的に説明することはできるはずがないんです。

「存在しないもの」の無限の広がりの中に生きる

・「笑い」は楽と同じように、同一の振動の中に複数の人を巻き込むことができる、これは人類が見出した共身体形成戦略の一種ではないかと思うんです。

外界に自然があるように、自分の身体の内側にも自然がある。人間の自我や主体性というのは、そのような外的な自然と内的な自然に挟まれた本当に狭いエリアにしか生息できない。

原子とか素粒子とかそういうものは物理学的には世界内部に存在するのかもしれんませんけど、それを感知したり操作したりすることはできない、そのような「存在しないもの」の無限の広がりのなかに人間は細々と暮らしている。

呼吸をコントロールできる人類と鳥類には「歌」がある

息という感じは初期の形では心が入っていないんです。これが今の息になるには紀元前1000年頃で、時代が殷からから周に変わった時です。その時人は、自分たちが呼吸をコントロールすることができる特別な存在だということを意識したんじゃないでしょうか。

呼吸のコントロールをできる動物って案外少なくて、類で言えば人類と鳥類だけだそうです。そして、呼吸がコントロールできる人類と鳥類には「歌」があるという共通点があり、それはやがて言葉に昇華するのですが、同時に「息を合わせる」という技法も手に入れることになります。

身体感覚と創造性

・身体的なブレークスルーというのは、ほとんどの場合、「自分の身体にそんな部位があると知らなかった部位」が「自分の身体にそんなことができると思ってもいなかった動き」をするという形で経験されるものです。だから、理論で詰めてくる人の場合でも、彼らにおける知的なブレークスルーは「自分が使ったことのない知性の働き」を使って「自分がそんなこと考えて射るとは思ってもいなかったアイデア」を発見するというカタチをとるはずなんです。これが身体性と創造性につながってくる★

・音からイメージを膨らませる楽しさを僕らは知っているわけですが、普段生きているのは音より意味が重要視される社会の内側です。だから、常に抱いている音の世界への郷愁が時々抑えようもなく漏れ出してしまう。それがオヤジギャクだと思うんです。

・一方で、意味が最重要とされ音への抑圧が強いとされるビジネウの世界で高い地位を築いてきたエリートビジネスマンたちの親父ギャグもすごい。意味的な世界で生きているからこそ、そのストレスから、音世界への憧れをいただくのかもしれません。

安定しているから変化に即応できない

・左右の母子の二点を一直線上に立てる「一重身の構え」というのが、技が決まった時の足の位置なんですけど、この構え、体制として「ゆらゆら」なんです。(中略)逆に一番悪い構えは両足が揃った構えですね。安定しているから変化に即応できない。「両足が揃った状態を隙と言う」と先生には教わりました。

・だから、脳の中枢的統御を解除するためには、反応を引き起こす想像的な対象を身体の外側に設定すれば良いんです。例えば、軒下から「雨が降ってきたかな」とそっと手を差し出す、動作なんていうのは見事に体が整うんです。掌がわずかな雨滴でも感知できるように感度を上げるためには、腕の筋肉に緊張があってはならない。人間ってなかなかすごいもので、そういう情景を思い浮かべてもらうと、それだけで綺麗にそういう動作ができる。

存在しないものを想像してもらうと身体が綺麗に整う。だから物語を必要とする

・長く指導してきてわかったことの一つは、「存在しないもの」を想像してもらうと身体が綺麗に整う。

・つまり、そこにある現実の身体を意思によって統御しようとすると、身体は上手くいかない。でも、「そこにないもの」を想像滴にどうにかしてみてというと、身体は綺麗に動く。僕はこれに気づいた時に、人類が「物語」を必要とする理由はこれじゃないかなとふと思ったんです★

白黒はっきりつけないユダヤ人の知的活動

・ノーベル賞受賞者数にユダヤ人がとんでもなく多いわけですが、総人口1500万人、世界人口の0.2%しかいない集団が医学生理学賞で30%、経済学賞では49%なんかで、どう考えても異常なんです。これは、彼らが集団的に継承してきた「知性の使い方」によってしか説明できないと思っています。

ユダヤ人が例外的なペースで知的イノベーションを担い得た理由は「さっさと白黒決めようぜ」ということを知性の振る舞いとして許さないというところにあるんだろ思う。ユダヤ教の聖句に単一の解釈がないように、決まらないことを目指しつつ、限界まで自説を主張し、相手を論破しようと熱い議論を続ける。そして、およぞ記録するに値すると思われた主張は網羅的に記録していく。ユダヤ人はそうやって彼らの知性を活動的な状態に維持するノウハウを磨き続けてきたんだと思います。

・「能は一義的な解釈を許容しない」わけですが、その基礎的教養を書物的知識として、ではなく謡いながら身体に入れてしまうというのが能の卓越したところだと思います。

心身を同期し、中枢的な指令を持たない「共身体」を形成する

・武道というのは本来戦技です。つまり、集団を一つの身体のように扱う技術のことです。「阿吽の呼吸」とか「肝胆相照らす」とか「言わず語らず」といった表現が武士の世界で重んじられたのは、上位解脱の組織管理は危機的状況では実は使い物にならないということを武士達が経験的に熟知していたからだと思います。

そういう場合に何より有用なのは、他者の心身の同期をする能力です。共身体というのは、僕の造語ですが、複数人の身体が一個の多細胞生物のように癒合した形のものをイメージしています。それが中枢的な指令抜きで状況に反応して「いるべき時に、いるべきところに立って、なすべきことをなす」という集団としての課題に適切に答える。そういうシステムのことを僕は共身体と呼んでいます。

シテとワキの境界が曖昧に溶け合い、地謡が風景となる

・能楽はまさにそのための能力を涵養するためのプログラムとして実に優れたものだと思います。セリフの掛け合いがどんどん進んでいくとシテとワキという自他の境界が曖昧になり、さらに掛け合いが続いていくともうほとんど二者の間には境界そのものがなくなり、その時点で突然、地謡に引き継がれます。すると、先ほども触れましたが、この地謡が歌うのが二人の感情でも主張でもなく、風景になるんです。環境が曖昧になった二者の思いは風景にも流れ出てしまうんです。二者間だけでなく環境との境界も無くなります。

・今、身体性というと「見える身体性」を指すことが多いのですが、見えない身体性、つまり内田さんのいう「共身体性」というのは、身体性としてはあまり取り上げられていない。

ミラーニューロンを発動させ、同化的に身体を使う「活殺自在」

合気道の稽古の場合は、「同化的に身体を使う」ということを繰り返し教えられますけど、この場合の「同化的」とは相手に同調するとか、相手に合わせるという意味じゃなく、相手のミラーニューロンを発動させて、相手がこちらと同じ体感を持ち、同じように筋肉が緊張し、同じように関節が回転する状態に持ち込むということなんです。これを活殺自在という。

・能が育成するタイプの能力は今の学校教育では求められていないんです。今の社会の仕組みそのものが求めていない。そもそもこの能力のことをなんと呼べばいいのか、名前さえついていない。

身体的共同体が解体され、人類は退化している

・だから、今の社会でしているように、集団を解体して個人が原子化・粒子化して、個体同士が優劣を競うっていうのは進化論的には退化していることだと思います。同期したり、共身体を作ったり、そういう人間固有の能力はむしろ文明が進むにつれて劣化してきている。グローバル社会で必死になって個人資産を増やそうとしている人間達って明らかに人間から猿に向かって退化していると思う。

いやぁ凄まじい。古典や身体の知的な面白さだけでなく、経営や組織づくりにつながる実践の知恵がたくさん詰まっているように感じます。最後に、安田さんからの巻末の一言を。まさに思索や創造を駆り立ててくれる様な一冊でした。

「読者の皆様には、この本から何かを学ぼうとはせずに、この本から発せられる何かを一つの契機に、ぜひ様々な思索や創造をしていただければと思っています」

変調「日本の古典」講義 – 身体で読む伝統・教養・知性 – / 安田登・内田樹