いのちはのちのいのちへ。被害者・加害者の構図を乗り越える壮絶な水俣病私史(常世の舟を漕ぎて 熟成版 / 緒方正人・辻信一)
「いのちはのちのいのちへ、のちのちのいのちへとかけられた願いの働きに生かさるる」
「チッソは私であった」の著者・緒方正人さんの壮絶な水俣病私史「常世の舟を漕ぎて 熟成版」
聞き手・編者 辻信一さん、出版は宗さんの株式会社素敬。
被害者として補償を求める運動から、次第に自らの中の文明社会における加害者性に気づき、被害者・加害者を超えて、共に立つ場を創りだしていくに至る凄まじい物語に衝撃を受ける。
「近代文明を他人事のように言葉であれこれ批評するのは難しいことじゃない。しかし、よくよく考えてみれば、近代文明というのはおのれ自身なんですね。自分を省みれば、少なくとも近代科学によってもたらされた恩恵や「文明の利器」の便利さ、快適さについては認めざるを得ないでしょう。そういうおのれについて自白するところから始めるしかない、と思うんです。地球の危機というけど、本当に危機的なのは、他の生き物との加減がわからなんようになってきている自分自身なんです。俺が狂った時に一番びっくりしたのは…(中略)いわば、チッソをおのれの中に見出して恐れ慄いたわけです。」
そして、とても言葉には書き切れないけれど、その根底に流れる緒方さんの在り方や生命観に心打たれる。
「この事件は、人が人を人と思わなくなった時から始まった。…そして、この自然界になんなら逆らわず、自然の掟に従って暮らしてきたこの地の人は、のたうち回り、あのケイレンとうめき声の姿は自然な人間の最後の叫びであった」
「水俣病の問題をやっていると、病気の問題だっていうこともあるし、それ以上にね、いのちの問題でしょ。…魚も鳥も猫も、他の多くの生きものたちも巻き込んでるわけですよ。」
・「ぬさり」とか「ごたがい」という言葉には、命というものが我々人間の領分を超えたところで展開しているということに対する畏敬の念が、またそれを前にして謙虚にひれ伏し、祈る心がこめられていると思んです。「ぬさり(=授かりもの)」としての生命。「ごたがい(=お互いさま」としての生命。生命の環の中の自分。だからいのちを選ばない。
・その点で、水俣病事件の3つの特徴ー(「奇病騒ぎ」が出てもイヲを食い続けた、胎児性水俣病であっても子供を産み続けた、(毒を食わされ殺され続けたけれどもこちらからは)人を殺さなかったという3つーは見事につながっていると思うんです。…これだけで近代文明いうものにしっかり対峙できる。人権とか、補償とかという、外から持ち込まれた概念を持ち出すまでもない。
・「ごたがい」が、人間同士の間で互いに依存し合い、助け合って生きているということだけを意味するわけじゃやに。動物や植物とも「ごたがい」の間柄です。「ごたがい」には海も山も何もかも含まれとっとですよ。我々人間はごたがいの環の中にあって、そのおかげで生きている。和解とか補償なんて、いわゆる人間の世の中にだけ通用する浅知恵にすぎない。死んでいった魚や鳥や猫はどげんするのか。金で済ませるわけにはいかんでしょ。消えてしまった藻場は、原生林はどうするのか。圧力かけて和解を押し付けるわけにもいかんでしょ。キリキリと舞って死んでいった魚の無念というものをどぎゃんすっとか。俺はずっとそのことを考えていきたい。
「いのちはのちのいのちへ、のちのちのいのちへとかけられた願いの働きに生かさるる」
※緒方さんがつくられた詩
・普通、いのちというと、「私のいのち」のことと思っちゃう。ところがいのちなんで所有できないんですよ。いのちは所有するのもじゃなくて、運動性そのものなんだと。生命史がこれだけ続いてきたという人間のコントロールを超えた摂理といってもいい。
・本質的に所有できないものを「私のいのち」といった瞬間におかしくなっちゃう。..モノの視点ではなく、コトの視点で考えるんです。
一つの地域、家族、身体の中に、被害者性と加害者性が混在し、分かち難く結びついていた
深刻極めるテーマでありながら、緒方さんのユーモアまじりの口調も軽快で、恥ずかしながら水俣病をめぐる実態をほとんど知らなかった自分でも引き込まれるように読めたので、ぜひ多くの方に読んで欲しい。映画なども色々でていますが、やっぱり現地を一度尋ねてみたい。
先日FM長崎「Nature & Future」ラジオ収録の際にもリクエストしたミスチルのタガタメが再び聴こえてくる。
「子供たちを被害者にも加害者にもせずにこの街で暮らしていくためにまず何をすべきだろう」