内蔵感覚をひらき、溶け合う環境に身を委ねる"あわい"の感覚とは?(あわいの力/安田登)

内蔵感覚をひらき、溶け合う環境に身を委ねる”あわい”の感覚とは?(あわいの力/安田登)

Stay Home中に書き溜めていた読書記録放出シリーズ。今回はあわいの力 / 安田登。

能楽師・安田登さんの著書の中でも特に興奮がとまらない一冊で、個人的「こころの3部作」のひとつ。日本芸能の培ってきた身体性やあわいを感じとる内臓感覚の重要性に迫る本で、内田樹さんの日本の身体と合わせて読みたい本です。

人という生き物の前提とされている「心」というものが、実は人類の歴史のある時点で生み出しされたものであり、不安やストレスなどの心の副作用がピークとなっている現代社会を乗り越えていくには、「心」に変わる何かが必要になるのではないか。

そのヒントになるのが、心の起源を辿る中でみえてくる。「内臓と深くつながった”あわい”の感覚」というものなのではないかというのがこの本のあらすじです。

<本記事の目次>
・能における”あわい”の存在「ワキ」
・能の道具は50年後に鳴り始める
・日本的「こころ」の三層構造
・東西文明の時間感覚~未来を決める西洋のリズム、今を刻む東洋の拍子〜
・肥大化した心の副作用
・時代と共に内臓から頭へのぼってきた「心」
・媒介としての身体の喪失
・みえないものをみるための「見立て」「歌」「振り」
・環境と自己の”あわい”で生まれる、身体感覚に根ざした思考
・まとめ:自然に身を委ね、あわいの感覚をひらく


能における”あわい”の存在「ワキ」

まずは、能における”あわい”の存在「ワキ」について。能には「シテ」と「ワキ」がありますが、シテ役=主人公と捉えて差し支えないのに対し、ワキというのはいわゆる脇役を超えた、”あわい”の存在なのだと言います。

(第一章:ワキというあわいの存在:ワキは媒介する)
・「自分が自分の言葉で神様の話をするとみんな引いてしまうのに、能の説明として神様の話をすると、みんなうんうん頷きながらありがたがって話をきく」と。これこそ物事を伝える「媒介」としての能の力なのではないか。

・実はこの媒介というのが極めてワキ的なのです。「夢幻能」と言う演目では、亡霊と出会ったワキが亡霊の残痕の思いを晴らす手助けをします。「ワキ」とはすなわち媒介。着物の縫い目でも、前と後ろとを分けると同時につなぐ媒介になっているのが「ワキ」

・この媒介という意味をあらわす古語が「あわい・あはひ(間)」です。つまり、ワキとは「あっちの世界」と人間と結ぶ「あわい」の存在ということができます★

・私たちが身体感覚という時、それは自分の内部で起こっているように感じてしまいますが、それを感じている自分という内部がある限り、身体は外の存在です。しかし、「外」といっても完全な外部ではありません。環境や他者という外部との境界に身体は存在します。

身体感覚という時、どうしても僕らは内部で起こっているように感じてしまいますが、実は環境や他者という外部とのあいだ・境界こそが身体であるとも言える。つまり、身体的な「媒介」「あわひ」を通して、人は外の世界とつながっている。なので、身体というのは自分にとってのワキであって、すべての人が「あわい」を生きているということができるのだと安田さんは言います。

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能の道具は50年後に鳴り始める

・毎日吹き続けていれば数十年後になり始めるかもしれない。が、ひょっとするとその人が生きているうちには音がならないかもしれない。本当に「いい笛」かどうかは、代々受け継ぎ、かなりの時間が経たないとわからない。

・能の世界ではそれが当たり前の感覚です。自分で何かを成し遂げようとか、自分一人でこの楽器の良し悪しを評価しようとかいう思いがあったら、とてもじゃありませんが、こんな世界で生きていくことはできません。目の前にあるものをとにかく次の世代に受け継いでいく。能楽師のその心持ちが、650年続く能の歴史を支えている。

・作者が誰であるかという西洋的な批評的視点が持ち込まれたのは、明治以降のこと。世阿弥作という作品がたくさんあったり、どこまでが観阿弥の思想でどこから世阿弥の思想であるかと言うことはわからないし、はっきり区別する必要もなかった。自分の成果をきにしなくていいどころか、他者から完全に切り離された「個人」という感覚さえ、持ち合わせていなかったかもしれません。

自分の代で何かを完成させるわけではないし、自分のやったことが受け継がれない可能性もある。良い音が出るかも自分の代ではわからないかもしれない。

しかし、それでも能全体にとっては何かの蓄積になっていると言う確信がどこかにある。それが、能の世界に生きる人たちの基本的な心の持ち方なのだと言います。いやぁすごい。

日本的「こころ」の三層構造

今度は、日本的な「こころ」について。

第二章:優雅なる復讐のメタファー
・日本的な「心(こころ)」というのは三層構造からなっています。一番表層にあるのが「こころ」で、その下にこころをうむ「思ひ」、さらにその下の深層に「心(しん)」が存在します。

・心の特徴は「変化する」こと。その移ろいやすい感情を生み出すものになる同的な心的作用がおもひ。そのさらに奥には、おもいやこころとは異質の心的作用である「心(しん)」があります。人間の感情のずっと奥にあり、言葉を伴うことなく一瞬にして相手に伝わる何か。それが心(しん)です。

・能の舞において大事なことは、言葉いならない「思ひ」を伝えること(どう伝えるかではない)、あるいはその深層にある「心(しん)」を伝えるエネルギーをどう起こすかであって、振りには意味があってはならない。意味が付与された途端に、それは理解可能な「こころ」の領域に属するものになってしまうからです

・そうやって先を見通す力が「あわい」を生きるワキの力です。

三層の一番表層にある「こころ」つまり、わかりやすい表層的な部分だけで物事を理解し考えようとするのではなく、身体という外の世界とつながる「媒介」を通じて身体感覚で思考する。それが、「心(こころ)」の副作用が蔓延する現代から次の時代にかけて、生きるために必要な力なのだという安田さんのメッセージには共鳴しかありません。

 

東西文明の時間感覚~未来を決める西洋のリズム、今を刻む東洋の拍子〜

ここでは、能における拍子や節というものをいかに体得していくかという話から、西洋的なリズム・メロディと東洋的な拍子・節の違いの話が語られます。

(第五章:あわいの真髄:一瞬一瞬の今を生きる)
・西洋音楽がリズムとメロディで成り立っているように、能は拍子と節で成り立っています。これが似ているようでいて驚くほど違う。

・リズムというのは、今の時点で存在しない未来をあらかじめ決めてしまうこと。指揮者が四拍子で棒を振った時点でそれに続く二拍目がどうくるかが予測できるということで、未来の存在しない未来の時間が決まっているということです。指揮者が一拍の長さを示すことで、それに続く未来が決まっていくのです★

・対して、「今」を刻むのが拍子です。未来がどうなるのかはわかりません。拍子はその時その場所にいる人の呼吸で決まります。例えば、まり付き歌の本来の姿は、鞠のはずみにあわせて歌を歌う。今の弾みに合わせて歌を歌う。それが「今」を刻むということであり、今の連続が拍子をつくっています。拍子には常に「今」の一拍しかないという。

・メロディが絶対的なら、節は相対的。1オクターブを7つの音階に均等に分けて、その流れでつくっていくのがメロディですが、能の節には大雑把に言うと、「上・中・下」の3つの相対的な音しかありません。メロディは絶対音感、周波数の違いで音を客観的に決めることができますが、節はそうはいきません。

・節を作る上で大切なのが、腹の感覚です。お腹の力の入れ方・緩め方ひとつで、節は大きく変わります。これは譜面では書けません。だから、簡単な符号と、口承と対面の稽古を通じて身体で学んでいくほかない。

・ところが、いまの日本人は、学校教育までが西洋音楽一辺倒ですから、謡を音階でまねようとします。身体の状態ではなくて、耳に聞こえてきた音だけをまねしてしまう。深層の「心(しん)」で真似るべきを、表層の「こころ」でまねしてしまう。

未来を刻むリズムと今を刻む拍子。絶対的なメロディと相対的な節。
なるほど、東西の音楽感覚という視点は面白いですね。

西洋音楽のメロディは絶対音感、つまり周波数の違いで客観的に楽譜に記述ができるのに対し、日本の「節」というのは、「上・中・下」と簡単な記号しか存在しない。

しかも、同じ「中」といっても相対的なものでしかなく、その都度異なる。それらが言葉の記述ではなく口承でしか伝わっていないのは、それが身体的にしか会得しえないものだからだだろう。弟子は師匠から腹からの音の出し方を身体で真似ぶほかないわけです。

そういう意味では、現代は今はわかりやすいものや譜面にかけるものばかりが重要視されているが、だがもはや絶対的な正義や真実が存在しないこの世界で本当に必要なのは、相対的な「節」的な感覚なのではないか。

そしてそれは、節が簡単な符号と、口承と対面の稽古を通じて身体で学んでいくほかなかったように、言葉の記述だけではなく本来持つ身体感覚をひらき、身体あるいは無意識の領域でしか会得しえない類のものなのではないかということです。

そして、このあたりの音楽というのは私たちの時間感覚と強く結びついています。

・同じ純粋数字が東洋では情緒となり、西洋では論理になる。音楽も似たダイナミクスが働いたのではないでしょうか。音を論理で分析しようとする意思と情緒的に捉えようとする意思。日本始め東洋の音楽は後者であり続けたということなんじゃないかと思うのです。

・中国で純粋数学が現れ始めて紀元前1000年という時期は、「心」という文字が生まれた時期とまさに重なります。人類は「心」を獲得し、それによって抽象的な思考が加速度的に発達し、やがて純粋数字というものを考え出した。が、同じ純粋数字でも、西洋では論理に、東洋・日本では情緒に発展した。その違いは、直線的な時間観念に基づいた磁性を持つ西洋の言語と、磁性の曖昧な日本語という違いにおいてあらわれてるのではないか★

音楽というものは人間の時間の認識構造を利用して成り立っている。絵画が空間的な芸術であるのに対して、音楽は時間的な芸術なのです★

・生身の身体には未来という観念はありません。あるのは「今」というこの一瞬のみ。この刻一刻に、身体から得られる様々な感覚のみです。未来を決めるリズムではなく、今を刻む拍子を生きる。それが「あわい」の力です。

・未来という存在しない時間を作り出しているのは「心」です。現代は、その心があまりに大きくなりすぎて、身体から今にもはみ出さんんばかりです。21世紀の今日がかくもいきづらいのは、そこに原因があるのではないか。とすれば、肥大化する「心」の副作用を乗り越えるヒントを探るためには、心がなかったときの人間の行動が参考になるにちがいない。★★★★

生身の身体という「媒介」「あわい」は、常に今ここの一瞬のみしか存在せず、未来という存在しない時間を作り出しているのは「こころ」。そして、そのこころが、ーここでの意味では「考える」ことともいえそうですがー、あまりに肥大化してしまい、現代社会の様々な副作用をもたらしているのではないかということですね。

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肥大化した心の副作用

では、紀元前1300年ごろの殷において生まれたとされている「心」は、どのような副作用が起こっているのでしょうか。

第六章:甲骨文字から「心」の誕生に迫る
・「心」によって、過去・現在・未来という時間の流れを感知することができるようにはなりましたが、人間は時間そのものをみることも、それをコントロールすることもできません。その結果、人間は、過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖を感じるようになり、ヘタをするとそういう感情に押しつぶされそうになっていきます。それが「心」がもたらした副作用です。★★★

・それをなんとかしようとしたのが、中国では孔子(紀元前551-希前言479 春秋時代)。孔子は「心」が一般化した紀元前1000年ごろからわずか500年後に「心」との付き合い方に苦しむ人たちのために、様々な教えを説いた。

・そしてインドで同時期に生きたのが釈迦(紀元前7世紀〜5世紀のあいだ)であり、西洋ではイエスキリスト(紀元前4-紀元後27)であった。

・三人の思想には大きな共通点がありますが、最も重要なことは「信じる」ことが彼らの思想の基盤にあっていることです。信じるという行為は「文字」によってうまれたもので、文字自体が信仰をその存在基盤にします。

・文字があるから人間は過去から現在への時間の流れを想像することができ、未来という存在しない時間についても思いを巡らせることができるようになった。つまり、孔子と釈迦とイエスの考え方は、時間と信仰がベースになっている。★

・それから2000年がたって、現代は心の副作用がピークに達している。人は今、未来への不安に押しつぶされそうになり、自殺や精神疾患が増えているのはそのひとつのあらわれではないでしょうか。

・「心」の最大の欠陥は、時間の流れに対して無力であるということです

・文字が心を生み、時間を作り出し、時間を知った人類が感じるようになった不安とむかいうために、孔子や釈迦やイエスの思想が生まれた。ということは、心に変わる何かが生まれるためには、文字に変わる何かがその前に生まれる必要があるのではないか。★

肥大化した心の副作用。それは、過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖といった感情に押しつぶされそうになってしまうこと。

そこから人々を救い出してきたのが、孔子と釈迦とイエスといった偉人たちによって生み出されてきた、文字を存在基盤とした信仰であったわけですが、心の副作用がピークに達した現代ではもう支えきれなくなってきているのではないかというのがここでの主張です。

時代と共に内臓から頭へのぼってきた「心」

ここまでに言われてきた「心」の副作用というのは、過去への後悔や未来の不安など、どちらかといえば頭で考えることに重心が偏りすぎてきてしまったことによる副作用とみることもできます。つまり、心の手綱を頭脳が握ってしまっているような状況に

しかし、実は「心」というのは、本来の内蔵感覚と深い関係性を持っていたというのがここからの話です。

第七章:「心」がなかった時代の内蔵感覚
・古代において「心」の動きは「内臓」の動きと関係があると思われていた

・新約聖書の中にスプランクニゾマイという言葉があります。憐みと訳されますが、もともとのニュアンスは内臓が動くという意味。

・この言葉の英訳はCompassion。相手の感情と一緒になるということ、すなわち感情の同期のこと。古代の人たちは、感情が一体化する感覚を「内臓」で感じていたようなのです★★

・ヘブライ語やシュメール・アッカド語では、内臓や子宮という意味とつながっていく。そういう相手の感覚と一体化する(=子宮感覚)を持ち合わせていた古代の人たちが生み出したのが「憐み=スプランクニゾマイ」という言葉です。

書籍のタイトルになったこともあり、最近よく話題にのぼる「コンパッションCompassion」ですが、古来の人は感情が一体化していく感覚を内臓で感じていたと。

そして、この新約聖書にある「σπλαγχνίζομαι(スプランクニゾマイ)」は日本語では「憐み」と訳されるわけですが、この「あわれみ」ということも実は、内臓や息、生命とつながった感覚であったといいます。

あわれとは溜め息が原義であり、憐みとはため息が出るような感情のことをいった。ばらばらになりそうな自分の心をつなぎとめておくような言葉が「あはれ」であり「溜め息」なのです。

・「いのち」は息の霊(ち)。古来、日本人は「息」に生命活動を感じていました。古事記では、神性や霊性をあらわすのに「ひ」「み」「ち」が使われていますが「ひ」「み」が静かな霊性を示すのに対して、「ち」はおろちやいかづちなど蠢く強い霊性を表す。

・息は日本人にとって、強く轟く生命活動の省庁そのものでした。「あはれ」という言葉であらわされる、「腹」のそこから吐き出す「深い溜め息」も「いのち」に通じるものなのです。★

ため息っていいですよね。ふーっと身体の力みが抜けていく感じで。山伏の修行にも気吹という呼吸の行があるのですが、腹の底から邪気を吐き出し、良気を取り込んでいくわけです。これがすごく清々しい。

そういえば、この前心臓の鼓動をひかりに変えるアーティスト松島さんとボディワーカーの小笠原さんと「生命のリズムと身体をめぐる対話」というのをやったのですが、呼吸って生命活動の本丸である自律神経系の営みでありながら、意識でもある程度コントロールができる唯一のものでもある。

古来の人々が息に生命活動を感じていたというのもわかる気がします。

・古事記の中で、仁徳天皇の歌われた歌に「腹にある肝向かう心」とある。肝は現代の肝臓というより内臓全般を指す言葉で、古事記時代の人は「心は腹の中の内臓にある」と思っていたようです。

・そう考えると「スプランクニゾマイ」という言葉に、あはれ=溜め息から派生した憐みという訳語を与えた人たちの感覚に驚かされます。腹の底から吐き出す太くて力強いため息は内蔵感覚と、息から連想される「いのち」は轟きは子宮感覚と見事なまでにつながります。★

・この心の定位置の上昇と「心」の副作用が大きくなっていることととは大きな関係があるのかも瀬ひません。こころがうえにのぼり、あらゆることを脳で考え雨量になって、様々な問題を引き起こしているのではないか

・だからこそ、人類が「心」に変わる何かを手にする上で、現代の人が失いかけている「内蔵感覚」を取り戻すことが、重要な意味を持つと思うのです★。

古事記の歌の中にも「心は腹の中の内臓にある」ということが詠まれていたそうです。

確かに「腹におさめる」「腹が立つ」など内臓に関わる言葉はたくさん残っていますよね。しかし現代では、心の位置や感情が生まれるところが子宮や内臓、腹からどんどん上にのぼって「頭にくる」ようになってきてしまった。現代人には心が内臓にあるという感覚は希薄になってしまったのではないでしょうか。

「心の肥大化・副作用」というのは、人類の歴史、特に社会の近現代化に伴ってその内臓感覚がないがしろにされ、論理や思考偏重になってきたことの結果なのかもしれません。

このことに生物学や解剖学的な観点から迫っているのが、個人的「こころの3部作」の一つでもある三木成夫さんの名著「内臓とこころ」です(こちらもおいおい書きたい)。昨年のフォーラムで扱った経営における”あいだ”の回復とも合わせて、かなりシンクロしていますのでおすすめです。

媒介としての身体の喪失

話は、また「あわい=媒介」に戻ります。
人がどのようにこのあわいの感覚を失ってきたのかについて、フロイトの幼児性欲発達、あとは知識偏重の住まい環境(都市)の作られ方などと絡めて語られていきます。

・フロイトは性欲は成人だけでなく幼児も性欲を持っており「幼児性欲」は5つの段階で発展していくとされている
 口唇期(0-2歳):おっぱいをもらう口に性欲が集中する時期
 肛門期(2-3歳):排泄のコントロールを通じて肛門が性欲の中心になる
 男根期(3-6歳):男根の有無で性差を意識する
 潜伏期(6-12歳):社会のルールを学び性欲を抑制することを学ぶ
 性器期(12歳以降):成人としての性欲がめばえはじめる

・フロイト的にいうならば幼児が大人に成長していく過程は「口唇」や「肛門」にあらわれている内側を隠す作業です。外にみえている粘膜的な内側を見えないようにしていくプロセスであり、いわば、身体をすべて外側化していく作業です。そして、その次にまっているのは、制服を着せたり学校に行かせて集団行動と通じて社会のルールを学ばせたりと、身体を「社会化」する作業です。

無限の身体を持った子ども(身体の輪郭への意識がない)

自我の芽生=身体の有限性(輪郭)への気づき(統一体としての身体を獲得する過程で起こる)

身体の社会化(身体の輪郭の消失)

「愛撫」や「交わり」による身体の輪郭の回復

という感じで、大人になる社会化のプロセスの中で、身体的な内側を隠し、身体すなわち「あわい」への入り口を一度失った後で、再び身体の輪郭を取り戻していくという流れが語られます。

つまり、再び身体性を取り戻していく舞台や契機が必要になるわけで、そうした装置が現代文明から失われているのではないかと安田さんは警鐘を鳴らします。

・ワキは、自らを媒介にして、日常と異界をつなる「あわい」の存在。

・神殿は日常とは異なる時間や空間、つまり「異界」を作り出す装置です。人は異界に足を踏み入れることで、自分が普段とらわれている身体性や自分の時間から抜け出し、新たなものに目覚める菊花絵をつかむことができる。★

・誕生したばかりの都市は、人の生き死にや性を司る「異界」を取り込んで、いうなれば身体に欠かせない機能を内部に組み込んで発達してきました

・ところが近代、特に19世紀以降のここ100年ほどのあいだで、都市の作り方が大きく変わりました。身体ではなく知識でつくられるようになり、合理性や効率性ばかりが追求されるようになりました。都市設計は、まさにそういう思想のものとで行われ、知的な活動や経済活動と直結しない「異界」は排除される報告に進んでいます。これは「心」の副作用の最たるものです。★

・都市が知識でつくられるようになったことで、都市に暮らす人の意識はますます身体から離れ、心がどんどん肥大化、ある意味では硬直化しています。★★★★

第二章で、僕らは誰もが身体という「媒介」「あわい」を通じて、世界とつながりあいながら生きているという話がありましたが、現代都市はそうした身体の力を失いやすい構造になってしまっているわけですね。

みえないものをみるための「見立て」「歌」「振り」

一方、日本にはそうした「あわいの感覚」を呼び覚ますような文化や知恵がたくさん埋め込まれています。

第9章:見えないものを見る力
・古事記では、天は神々が暮らす世界という意味で、「天」を「あめ」と読むところがあります。

・「天と地がわかれたとき」が、海と地がわかれたとなると海と陸地の境界「波打ち際」にあります。これは波が寄せては返すゆるやかな境界です。

日本人にとっての境界は、じつはこのようなゆるやかなあいまいなものだったのではないか。そう思うのです。例えば、家の内と外の境界に、あいまいな空間である縁側をおいたり、掛詞もそうですし、日本文化の中にはあいまいな境界がたくさんあります。

この曖昧な境界に、もっともなじまないのが文字です。文字は書き換えることができますが、口から出た音の振動は二度と体内に戻ることはない。音声としての言葉に呪術的な力を感じていた。言葉に霊魂が宿るという感覚は「言霊」とことばにあらわれています。

そして、こうしたみえないものをみるための知恵が「見立て」「歌」「振り」です。

(見立て)
・文字の必要性を感じなかった日本人は「見立てる力」に優れた民族でした

・古事記の最初の方に、高天原から降りてきたイザナギとイザナミが「天の御柱を見立て」というくだりがあります。

・能でも見立てをよく使います。そこに森があるというと、そこに森が出現します。本当に森がみえるようになる。そこにないものを存在させてしまう呪術的な行為が行われる

・興味深いのが、古事記では「信じる」という言葉が使われていないことです。見立てによって何かがみえることと、真実ことは全く次元が異なります。信じることは、みえてないものを意思の力であるが如く感じること、つまり心を前提にした行為です。それに対して「見立て」は、身体的な感覚で本当に「みえ」ているのです。

(歌)
人類が「みえないものをみる」ために重宝してきたもの、それが「歌」です

・かつでの人類にとっては、文章とは読むものではなく歌うものでした。歌には目の前に幻影をありありと浮かび上がらせる力があります。歌は「見えないものをみる」ための呪術的な行為なのです

・知り合いのひいお爺さんで、新聞を歌うように読んでいたという方がいらっしゃった。そのおじいさんは新聞を歌うように読むだけでなく、やがて躍り出したそうなのです。歌や和歌のような韻文だけでなく、新聞のようなものも歌ってしまう。そんな能力を昔の人は持っていました。

(振り)
・身ぶりが人間同士のコミュニケーション手段であるのに対して、能の「ふり」のコミュニケーションの相手は神様や幽霊です。なので、「ふり」に意味がないのはそれが神に捧げる呪術的な行為だからです。

能の「ふり」の本質は、歌と同じく身体動作を伴う振動にあります。そして振動させることで、境界をあいまいにし、あわいと生み出すための行為でもあります

こうしたみえないものをみるための「見立て」「歌」「振り」という知恵に共通しているのは、曖昧さを持ちづらい文字ではなく、身体性とつながっていることです。

「みようとしなくてもみえる」技術に囲まれ、しかも便利さの裏で、直接的な身体体験がかなりのところまで失われている現代社会では、そうした言葉にならないものを感じ、受け取る身体性というのは衰えてしまう。第7章でコンパッション(Compassion)という共感が本来は内蔵感覚とつながっていたことを書きましたが、こうしたあわいを感じ取る身体性の喪失こそが現代社会の分断の背後にある根っこなのではないでしょうか。

環境と自己の”あわい”で生まれる、身体感覚に根ざした思考

そしていよいよ、失われてきた「あわい」の感覚や身体をいかに取り戻していくかという話なのですが、まず面白かったのが、「かんがえる」という日本語の語源が身体とつながっていたという話。

・実は「かんがえる」という日本語も、この曖昧な境界「あわい」を生み出す行為であり、呪術的な意味合いもある言葉なのです

・「かんがえる」の語源は「か身交ふ(かみかふ)」、つまり身体が「交わる」状態を指します。身体が交わるときに、すなわち思考が生まれる。そういう風にかんがえていたのではないでしょうか。★★★

考えるの語源は「か身交ふ」つまり、身体が交わる状態。驚きではありますが、一方でとても腑に落ちる感じもあります。

頭だけで考えていてもなかなか思考が進まないときに、自然の中を歩いたりして全身の感覚がひらかれていくと、ふとアイデアがおりてきたりする経験がある方も多いのではないでしょうか。

「かんがえる」のに適しているのは、都会の街並みでもなく自宅の写経部屋でもなく、自然の中をあるくことです。鳥のさえずりや葉のそよぎ、川のせせらぎの音をききながら歩いていると、いつしか「外」の自然と「内」の自己が交わって、自分が普段思いつかないようなことが引き出されていきます。★★★

身体を「媒介」に環境と自己、あるいは思考する対象と自己とが「交わる」状態、いいかえると、環境や対象からの刺激を受けながら、身体という「あわい」で様々なことに思いを巡らす状態ー、それが「かんがえる」という行為なのです。

・つまり「かんがえる」とはけっして自己の単独行為ではなく、身体を「媒介」に環境と「交わる」呪術的な行為なのです。

・そういう「答えのない問い」を問うときこそ、自然の中を歩いて「か身交ふ(かみかふ)」のが一番です。すると、環境と自己の「あわい」で、身体感覚に根ざした思考ができます。「問ふ」ことも身体的な営みであり、けっして脳内で完結する行為ではないのです。

これはまさに、ティモシーモートンのアンビエントな環境哲学

環境と自己の「あわい」で、身体感覚に根ざした思考というのは、まさに自分と環境が一体となっておこっていく振動・共振・波の作用ですね。自然がそうした「あわい」の感覚を呼び覚ましてくれるというのはとてもしっくりきます。

・あわいを呼び覚ますもうひとつの良い方法は温泉です。

・お湯に身を浸していると、まず皮膚がお湯を感じ、そしてお湯が身体の中に入ってくる感じがあります。自分とお湯の境界があいまいになり、自分がお湯に溶けていくような感覚になります。すると、ひとつところにとどまっていた意識がゆるみはじめ、思考がお湯との間を行き来して、ダイナミックに広がっていきます。★★★

これもすっごくわかります。

特に、阿蘇の黒川温泉に行った時のことが忘れられないのですが、湯口から流れるぬるーい源泉を、横になって頭からあびていてたときに、自分と世界が溶けあっていくようなとてつもない安心感を内側から味わったことがあります。いつのまにか意識と無意識の境がぼんやりとあいまいになっていく感じで、おそらく羊水に包まれた胎児の時はこういう感じだったのだろうと根拠のない確信さえ覚えました。

そんな体験もあって、「真っ暗なお風呂につかる」というのが普段の暮らしの中で身体のリズムを整えるとても大切な習慣なのですが、本当に不思議なくらい落ち着くんですよね。最近はそこに和ろうそくを導入して、ぼーっと火のゆらぎを眺めています。

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まとめ:自然に身を委ね、あわいの感覚をひらく

人類が3000年ほど前に生み出した「心」は、人類に運命を乗り越えるという「意思」の力を授けた反面、時間や感情にまつわる大きな「副作用」をもたらしてきたという安田登さんのメッセージは、僕らが無意識に前提としてしまっている現代社会や生き方の根っこに大切な問いかけを投げかけてくれているように思います。

「コンパッション」や「あわい=溜め息」の語源が内臓や子宮感覚とつながっていたように、本来は腹や内臓感覚とつながっていた心が、いつの間にか身体と切り離された思考、すなわち頭脳へと定位置がのぼっていきました。現代はそうした心のもたらす副作用、つまり過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖などの精神負荷があまりに肥大化し、ピークを迎えている時代なのかもしれません。

そんな状況を乗り越えるヒントになるのが、自分と世界のあいまいさを包みこむ媒介としての身体(内臓感覚)であり「あわい」の感覚。

「かんがえる」という行為が、「か身交う」つまり周囲と身体的に交わる状態という語源を持ち、身体を「媒介」に環境と自己が溶け合って、曖昧な「あわい」を生み出す行為だったというのも衝撃であり、とても腑に落ちました。

これはまさにティモシーモートンの環境哲学ともシンクロしていて、環境と自己の「あわい」で、内臓感覚に根ざした思考を取り戻すということは、これからのリジェネレーションの物語の核。昨年末にやったEcological Memesフォーラムで直観的に「あいだの回復」というテーマが現れていた意味が今になってそういうことだったのね、とむくむくと立ち現れている感じがあります。

そして、安田さんがあわいの感覚を活性化するために例示してくれている「自然を歩く」と「温泉につかる」。この二つに共通するのは、環境に身を委ねるということ。

僕はよく「環境に身を委ね、自然の力を借りる」と言っているのですが、気分が晴れなかったり、頭の中で悩みごとがぐるぐるしてしまうときには、自分でどうこうするよりも、自然の中を歩いたり、夜風にふかれてみる。そうすると、不思議なくらいすーっと自ずから調ってしまいます。

「あわい」の感覚も、自分で自分の身体をどうこうしようとするのではなくて、環境の刺激を借りて身体感覚を目覚めさせ、知らず知らずのうちに閉じていた「あわい」のチャンネルをもういちどひらいていく。そういうことなのかなと思います。

あわいの力 / 安田登