分断や二極化を乗り越えるための身体的叡智(武道家・内田樹 /「日本の身体」)
いやぁ、、内田樹さんの日本の身体 (新潮文庫)、とんでもなく面白かった。
合気道家から能楽師、茶道家からマタギまで12名の身体の達人たちとの対談からにじみでてくる日本人的身体論。
これから、社会の様々な場面で起こる分断や二極化の先に、「共感」ということの重要性がこれまで以上に唱えられていく時代になると思いますが、そうした言葉をはるかに凌駕するような身体的叡智。
個人的なキーワードは、身体的シンクロ、共振、体感を送る/受け取る、敵対関係からの同化、などなど。
小学生の頃、でんぐり返しばかりに飽きて合気道が続かなかった私が言うのもアレなんですが笑、でも、スポーツやっている人には結構わかる感覚だと思うんですよね。
サッカーでも、長年練習や生活の場を共にしていると、相棒が出すパスの道筋とかあいつが後ろから上がってくるみたいのがあたかも一緒に動いているかのようにわかる感覚があるし、漫画みたいに相手と身体的に同期にする感じっておそらく誰もがサッカー人生の中に幾回かあったりする。
あとは、以前に仕事で体を酷使しすぎて子供の頃やっていた野口整体を生活に取り戻し活元運動とかをやるようになってからは、『「嫌な感じ」を活き活きと感知できるような身体感受性』も少しづつ取り戻せている感覚がある。(そうか、そこに「嫌な感じが消えた」経験則が加わると深まるのか、というのは大きな気づき)
敵対関係にあったものを次元を切り替えることで自分と相手を含んだ複素的な統一体を作る(!)とか、どうやって他の身体と共振し体感を送ったり送られたりするのかという共に生きる技術(!!)とか、細胞の肌理を合わせて身体的パッチワークを相手とパッと同期できるような感度のいい身体を作るための訓練(!!!)とか。だいぶ面白すぎたのですが、、
中でも最大のハイライトは、合気道家の多田宏さんとの対談の中でのこの一文。
「今の日本社会は、奇妙な「嫌な感じ」に逐一反応する個体よりも、相当に不快であっても、それを感じないで平気という個体の方が生存戦略上有利であるようにシステムが構築されています。いわば、社会全体で鈍感な人間を再生産している」
ともすれば感覚を鈍化させて生きる方が楽な時代、どう命の力を養い、分断を乗り越えていくのか。
日本人が古来から培ってきた身体的叡智を、現在、そして未来に橋渡ししていくような一冊。(あえていうなら、身体的動きが分かる写真や動画が欲しかった)
下記ちょっとした美貌メモですが、ビビッときた方は是非。オススメです。
※2017年の振り返りにつき追記(2017/12/30)※
新年早々、圧倒されたのがこの一冊。
個人的に、武道や能をはじめとする身体性に関する知恵(身体知性)、神道や修験道などにみられる自然と共生していく生命的知性、そして禅や日常的儀礼に組み込まれている瞬間的に自分自身をマネジメントする精神的知性の3つは、これからの時代にグローバルに価値の再認識が行われてしかるべき日本の最大の文化資産だと言っているのですが、この本はそのうちの身体知性について、合気道家から能楽師、茶道家からマタギまで12名の身体の達人たちと内田樹さんとの対談を通じてにじみ出てくる日本人的身体論。
頭よりももっとたくさんの情報を身体は知っていて、これからはその情報(反応)にアクセスする術を持っている人の創出価値が飛躍的に高まっていく創造性の時代、身体知性とは何かを探りはじめるのにはぴったりだった1冊。
※追記終わり※
(以下、本書よりメモ)
・自分を大切に扱うという場合、一番基本的なところにまず自分自身の身体感覚があるはず。自分の内側に入り込んでいって、自分の身体は今自分にとって一番気持ちの良い姿勢でいるかしら?一番気持ちの良い服を着ているかしら?一番食べたいものを食べているかしら?とチェックするのはすごく大事なことではないですか。自分自身の身体間各区のわからない人間が、どうして目の前にいる人間の飢えや渇きを理解できるでしょうか(w/ 千宗屋/茶道家)
・なぜ応仁の乱の後、戦国時代にわび茶が台頭してきたのか。応仁の乱によって破壊的な解体があった共同体を再構築しなければならないという要請が切実にあった。その時に有効なのが、気体なり液体なり分割不可能なものを分かち合うこと。だから、酒やタバコを回し飲みする儀礼は世界各地で見ることができる。呼吸が同期し、脈拍が同期し、身体感覚が同期するのがどんなに気分の良いことか、人間が共同体をつくった時の原点に、もう一回戻ってみないかと。(w/ 千宗屋/茶道家)
・基本的に武道では、相対的な稽古をしてはいけないことになっている。(中略)ある次元では敵対関係にあったものが、次元を切り替えることで、自分と相手を含んだ統一体を作り、人がたくさんいるならその人たちを含んだ複素的なシステムを作っていけばいいんです。ですから、武道における身体運用というのは、身体の局所を強くするとか、早く動くとか、いわんや相手を倒すのではない。自分と相手が対峙する状況全体を含んだシステムを構築し、いかにそれをコントロールするかというところが肝心。そのためには、目の前の人と敵対してはいけません。一瞬にして呼吸を合わせ、細胞の肌理を合わせていかなくては。人間は様々な模様のパッチワークに似た、非常に複合的な存在です、だから相手の中には、部分的に自分と同じ模様もある。その同じ模様にパッと同期できるような、感度のいい身体を作るための訓練。(w/ 安田登/能楽師)
・合気道など特にそうですが、武術は殺傷技術ではありません。基本的に非常にプリミティブなコミュニケーション技術。どうやって他の身体と共振し、体幹を送ったり送られたりするのかという共に生きる技術。その場にいる人たちと一つの体幹を共有する。そういう強い共感力とか発信力をどうやって育てていくのかという技法でもあるわけです。(w/ 多田宏/合気道家)
・武道でも相手にどこかを掴まれている時にこうなると嫌な感じ、こうすると嫌な感じが消えるという微妙な感覚の差があります。身体をどう動かせばその嫌な感じが消えるかについて、経験的にわかってくれば、身体は経験則に従って、ごく自然に「不快を避け、快を求めて」動くようになる。(w/ 池上六郎/治療者)
・ある身体的入力がもたらす「嫌な感じ」をゼロにするにはどういう方向に、どういう質の運動をすれば良いのかは身体そのものが知っていますから、稽古というのはどこかの身体部位を強化するものではなくて、むしろ「嫌な感じ」を活き活きと感知できるような身体感受性を開発すること。
・身体がガチガチで筋肉が縮み上がって背中がバリバリで体軸もゆがんでいる中年の方が入門してくる。彼らは結局息を止めて、痛みやこわばりを感じないように生きている。不快な体幹を感じ続けているのは辛いですから、それを解消する代わりに、感じないように身体感受性の回路をオフにしている。身体を硬直さsれて不快感をシャットアウトしているのは男性に多いですね。「嫌な感じ」と「嫌な感じが消えた」の体感の差については、女性の方が敏感。
・言葉と身体の関係は面白い。名前が付いているわざとついていない技では、明らかに名前が付いている技の方が掛けやすい。相手と間合が詰まってきた時に「あの技」をかけようと、その名前を思い出すと、それがどういう技だったのか細かいことまでイメージできなくても、型どおりに身体が動いてしまう。ところが、名前が付いていない技の場合は技に入る前に、この技はこう言う手順でこうしてああしてって一通り頭の中でシュミレーションしてからでないと、できない。
[…] このあたりは、内田樹さんの言う身体性や感じるということの重要性ともつながってくる気がしますし、宮崎駿さんなどもおっしゃっている「無我の創造」などもまさにピュシスの実存に迫る主客未分の世界ですね。 […]
[…] Stay Home中に書き溜めていた読書記録放出シリーズ。今回はあわいの力 / 安田登。能楽師・安田登さんの著書の中でも特に興奮がとまらない一冊で、個人的「こころの3部作」のひとつ。日本芸能の培ってきた身体性やあわいを感じとる内臓感覚の重要性に迫る本で、内田樹さんの日本の身体と合わせて読みたい本です。人という生き物の前提とされている「心」というものが、実は人類の歴史のある時点で生み出しされたものであり、不安やストレスなどの心の副作用がピークとなっている現代社会を乗り越えていくには、「心」に変わる何かが必要になるのではないか。 […]