ヒューマンスケールを越えて – 頭で「分かつ」世界から生命のリズムや流れと「共にある」世界へ – (鎌田東二・ハナムラチカヒロ)

4月くらいからなんだか面白い本との出逢いが多すぎているのですが、週末にいろいろ書き溜めていたものを、順次放出することに。まずはこれ。

ヒューマンスケールを越えて -わたし・聖地・ガイア- / 鎌田東二・ハナムラチカヒロ

哲学者・宗教学者の鎌田東二さんと、「まなざしのデザイン」でも著名なランドスケープデザイナーのハナムラチカヒロ氏の対談書。非常に面白かった。

この二人が、演劇やら現象学やら建築やら聖地やらデザインやら生態学やらメタノイア(自分の在り方や見方自体の転換=メタ知性)やら仏教哲学やらリズムやら神道アミニズムやらそれはまぁ様々な領域を縦横無尽に駆け回りながら、ヒューマンスケールを越えて、自然や地球のスケールに射程を伸ばしていくわけだから面白くないはずがない。

目次だけでも、

  • はじめにースケール転換を求めて
  • 第一章:わたしという現象 ー人生とは演技の連続であるー
  • 第二章:異化するデザイン ー見方を変えると風景が変わるー
  • 第三章:メタノイア ー自分の在り方を転換(メタ)するー
  • 第四章:意識の進化 ースケールが変わると正解が変わるー
  • 第五章:聖地の創造 ー生命力を活性化させる場所ー
  • 第六章:生命のリズム ー両極を行き来して進むー
  • 第七章:宇宙の縮図 ー聖地から宇宙を見上げるー
  • 第八章:母なるガイア ー太陽の原理から月の原理へー

という感じでめちゃくちゃ興味深いのですが、個人的には第五章・六章がドンピシャリ。良書でも最初の方が面白くて後半はだんだんさーっと読み流していく本が多いですが、この本は後に読み進めれば進むほどぐいぐいやられました。

※07/08 追記※
各地で深刻な豪雨や土砂災害が起きている中、とにかく被害が最小になることを願うばかりです。そして同時に、全身に降り注ぐ激しい雨風を浴びながら、自然の荒々しさを感じずにはいられません。
静けさと荒々しさ、安心と畏怖、男性性と女性性、植物と動物、創造と破壊…
ヒューマンスケールを越えて、そうした対極性や陰陽思想的な流れを感じ取っていくことがとても大切になっていると感じます。

根源的な生命力を高めていく場所の感覚

まずは「第五章:聖地の創造 ー生命力を活性化させる場所ー」から。

鎌田東二さんは、アニミズムや神道の視点から、聖地の起源をあらゆる生命が根源的な生命力そのものを高めていく場所への感覚にあると言います。

(第五章:聖地の創造 ー生命力を活性化させる場所ー)
・聖地の起源というのは、人間だけでなく、あらゆる生命が生存するために発見していった場所の感覚だと思うのです。それが人類にとっての聖地になっていった

・生物が生物として機能し、活動していくためには、ある程度安全性が担保されなけれならない。つねに危険をさらせていたのでばストレスフルで、個体も滅ぶし、種全体も危険に陥っていく

・人間だけでなく、色々な動物は、そういう自然の圧倒的な威力や息吹を感受して、それに対してリアクションをしている。そのリアクションの中に、動物界の聖地の原型的想像がある。

・初期の動物の像は、動物神的なものが多かった。それがやがて人間的なものになっていく。聖なるものの感覚がよりヒューマンスケールいなっていくプロセスを表している。自然から動物を経て人間へと移行していく。

・神も聖地も元々はネイチャースケールであった。ネイチャーの力と息吹を最も強く感じるところであったのですが、それはやがてヒューマンスケールになっていって、人工空間である都市の一角に神殿を作り、人間的な造形になっていく。ヒューマンスケールな宗教文化が生まれて生きて、その聖地も極めて人間的になっていく。

・だけど、本来的には聖地は根源的な生命力そのものを目覚めさせたり、強化したり、喚起する力を持っている

そして、ハナムラさんとの対談の中で、本来は生活空間の守る安全なものとしてつくられてきた都市文明が、実は今や生命力という観点からものすごく危険な場所になってきているのではないかとの指摘がされていきます。

・人間は自然の中で生きていくためには「いと小さき者」なわけです。自意識をもってしまって、自分がいかに弱い存在であるかをしってしまった。だから、安心・安全を切望するという精神性を持っている。衣服や建築など、自分を覆うものを、何かに包まれて生きていくということを本能的に求めている。ある種の安全感とか安心感とかを生み出す。

・人間はそうした自分を覆うものを求めて、文明を発達させてきた。特に、狩猟民族から農耕民族に移り、定住生活をしなければならなくなったときに、生活空間自体を守るものとして都市を作って生きた。

・しかし、そうやって都市をつくってきたはずなんですが、ところが、都市は今、もっとも地球環境的に不安定で、破壊的ななものになっている。色々な電波が飛び交い、食品には添加物やどんどん入れられて、人の損得感情や経済的な競争を煽る情報にみてちていて。

・実は、都市はものすごく危険な場所になっているんじゃないか。それが、人間の生命に影響を及ぼしていて、人は鬱になったり、心身がおかしくなったりしている。だから理由もわからないまま無意識的に何かを浄化することを求める気持ちが高まっている。

・今までは、危険はすごくわかりやすいかたちで迫ってきた。災害のような形であったり、飢餓や貧困のような形であったり、でも今は、ある程度表面上はみたされているようにみえるこの都市において、じつは危険が透明化している。そして、そのことに気づけていないぐらい人間の感性が鈍っているんじゃないかという危険性を感じています。

(日本最古の神社といわれる奈良県・大神神社。最初に訪ねた時の感覚は忘れられない。

自然のリズム、文明のリズム、個人のリズム

都市と自然のリズムに関連して、大橋力さんの面白い研究の話もでてきます。大橋力さんは、森林においてハイパーソニックサウンド(人が知覚できない高周波だが深いリラックスへと誘う効果があるとされている)などを発見されたことでも知られていますね。

・脳科学者の大橋力さんは、熱帯雨林の音の量と渋谷のスクランブル交差点の音の量を比較した。渋谷の音の量は50デシベルくらいで、かなりの騒音。普通だと不快で心が不安定になるような騒音として受け止められる。ところが、熱帯雨林の森林は、それ以上の70デシベルを優に超える音量であるにもかかわらず、そこにいった時に、すごく気持ちよくリラックスできて安心し、それを楽しめるというか、味わうことができる。自然のリズムとの調和ということです。それは自分の体内のリズム、つまりバイオリズムと、調和するものを身体は感じ取っている。

・自然には陰影があって、波打っている。その波打っている状態そのままにそれが感受できた場合、一つ一つの微細な動きが私たちの細胞の一つ一つを開いていくような力を持っている。ですから、熱帯雨林は、そのマックスががーっとくる圧力じゃなくて、分散された微細なマッサージのようなかたちで、一つ一つが我々に振動として伝わってくる。ハイパーソニックな振動なのです。だから、その振動、響きも一つ一つが生きている。そういう風に感受できた時、僕らの生命感はひらいていく。

・渋谷の方が音が小さくて、熱帯雨林の方が音が大きいのに、熱帯雨林の方がなぜ静かに感じるのか。ポイントになるのは、波長やリズムが調和しているかどうかなのではないかと思うのです。熱帯雨林では一つ一つの音は大きかったとしても、ある秩序に沿った音なのではないか。自然の法則がそうした秩序の全体性を担保しているんですけど、街の中はばらばらのリズムがたんに集まっているだけ。たから都市では不調和のリズムの中に人間がいて、きれいな関数の波動になっちえない。バラバラのリズムが一気にやってくる都市に対して、熱帯雨林はリズムが同期した状態でくる。その違いなのではないかと思うのです。

・瞑想も同じように、細胞がてんでんバラバラに動いているのを意識によって調和させていく効果があるのではないかと思っています。体の中に順番に意識を巡らせていくことで、バラバラだったリズムを同期させていく。外からの刺激によって身体に様々な不調和が起こり、それが病気を起こすのであれば、調和すると体調が整うのは当たり前のことだと思います。

そういう意味では、マインドフル瞑想やサウナ、家庭菜園など様々なライフスタイルトレンドも、現代の生活が自然の大きなリズムと調和していないことへの違和感やストレスの発露であり、自然なリズムとの調和への希求なのだと思っています。

7万年前の認知革命を機に自意識を持つようになった人類はその後、「都市国家(ポリス)の壁の外では何も興味深いことは起こらない」という古代ギリシアの言葉や、「知識は力なり」といったフランシス・ベーコンの近代科学思想などに象徴されるように、1万年前の農耕革命を機に5000年ほど前に都市をつくり、さらには18世紀の産業革命を経て、自分たちを自然や取り巻く環境から文節的に切り離し、自然を搾取や支配の対象とした世界認識を加速させてきたわけですが、

それによって、本来は調和していたはずの自然のリズムから切り離されて、人間だけのリズムや時間感覚がつくられていってしまった。様々なかたちでその不調和やズレを受け取っているのが現代社会なのではないでしょうか。

・祈りが祈りたりうるためには、内的平静というか、静けさは絶対必要です。聖なるものは静かだと思っている。比叡山に行くと、自然が発する微細は物音、木が鳴るちょっとした音、鳥の泣き声が非常に鮮明に聞こえます。

・今、人間の文明は便利にはなったけど、とっても不自然。それをうまく、自然との調和の方向に持っていくためには、ある種の便利さを失い、痛みを伴うかもしれない。でも、どこあでショック療法のようなものが必要なのではないかとも思っています。

・だから、本当にデザインすべき対象は、僕ら自身のまなざしや意識であり、全ての人間が他者に優しく、自然に優しく、そして調和を目指す意識を持った時、地球は安全な場所に変わっていく方向へようやく歩めるような気がしています。ひょっとするとそれが、さっきの人間が祈り続ける場所が特殊化していくという話とどこかでつながってくるのかもしれません。

・動物として、生き物として、人間として、思う存分に眠り、深い欲望に取り巻かれた夢ではなくて、この世の根元や自然の根元の神聖なエネルギーと交流するような夢を存分に見えることができれば、生きる活力というか、よみがえりがあるわけですよね。

・そうした地球や自然との調和的な感覚をなくしてしまうと、我々自身の全体も間違いなく破局的なものへと向かっていってしまう

このあたりは、「まなざしのデザイン」を現したハナムラさんらしいメッセージですね。

自然への畏愛、すなわち「安心」と「畏怖」の動的平衡

続いて、「第六章:生命のリズム ー両極を行き来して進むー」からも少しだけ。

あえて危険をおかすことで生命力を活性化させる方法と、安全と安心によって緊張を解き、深いリラックス状態を生み出して、命の海に立ち還る方法とがある。不安定な生命を危険に晒すことで、その反発力で生命力が立ち上がってくるのと、一方で囲まれて安心して座って修行するのとの両方がある。これもダイナミックバランスというリズムですね。

・生命力を修復する時間と、生命力が反動させる時間の両方が必要で、陰と陽の関係になっているのかなと思います。特に都市の中とか住宅の中は安全に守ることをもくてきにしてつくられた場所だから、逆にそこに安寧を見出してしまうと生命力はどんどん弱っていく。

今僕が本当に危機感をおぼえているのは、生命力の衰弱です。基本的に文明は、楽をするとか、安心する、安全であるということを追求してきたんですね。一方でその追及の果てに、自分のホメオスタシスが衰えていく。住宅をつくっても、空調で環境を整備して快適性を作り出し、体調が悪いとすぐに薬を飲む。だんだんそうやって、自分の生命力が持っていた機能を外注していった。

・文明の発達や道具の進化というのは、人間の生命力そのものを退化させる危険性があるということを認識する必要がある

・だから、ずっと安心のほうばかりを追い求めるのはバランスを欠くことがある。危険を全部排除して、美味しいところだけ求めるような、都合の良い方向へテクノロジーは向きがち。それがバランスを欠くことを非常に危惧しています。

本書でも「自然や聖なるものは安全で輝かしいというのは本当に一面的な見方」と書かれていますが、自然の中に身を置いていて感じるのは、自然は穏やかで優美な側面だけでなく、荒々しさや厳しさ、破壊的な側面も持ち合わせているということ。時には危険と隣り合わせとなるような状況に直面することもある。山道での野生動物と遭遇した時の緊張感や、山伏修行で滝に打たれたり、川に流される中で、身体の細胞のひとつひとつが活性化して生命力が高まっていくような、あの感じ。

なので、自然が語られる時に安心についてのみが切り離されて語られたり、自然の「危険性」をテクノロジーによってどう取り除くかといった議論がされているのをみると違和感を感じたりする。僕はむしろ、人間にとって自然の本質は、ヒューマンスケールを越えた「畏怖」と「安心」の両面を併せ持つということなんだと感じている。しかも、これらは対立するものではなくて、それこそ陰陽思想のように互いに相依相待であり、相互補完的であり、そこに在るのは、超越性を畏れながらも命の海に包まれるように愛しむ「畏愛」だ。ただ、生命本来のつながりや安心感が圧倒的に失われてしまっている現代社会では、深いつながりや安心感を取り戻すことがまず大事。

(岩手・遠野に馬と共にある暮らしを探求する素晴らしい場所があるのだが、数年前にそこで過ごした時に降りてきたモデル。その前夜に山道でいきなり馬の雄叫びと駆ける音がきこえ、あまりのこわさに身体が硬直してしまう体験をした。温かく愛おしい馬だが、人蹴りされれば人間などイチコロだ。畏愛を抱きしめるということを深く体験した瞬間だった)

ヒューマンスケール(=自我)を超える深い生命観へとアクセスする

こうした中で、ヒューマンスケールを越えたものとのつながりを取り戻していくことの重要性が語られていきます。

・自我を手放せないと、リセットできない何かがある。自我に取り巻かれていると、自我の堂々巡りの中にはいってしまって、自分のヒューマンスケールの世界だけで生きていくことになる。

本当に生命にとって重要なのは、自分の自我がつくりあげてきたヒューマンスケールを超えるものにアクセスできること。自然とか宇宙とかそういうところに至らないと、本当の意味での生命観の深い深層海流に乗れないのですね。そのための仕掛けや、思想や、いろいろな技法があると思うのです。

それは、生命の海へと立ち返るような深い「安心」と、生命力を活性化させるような「畏怖」とのダイナミクスやリズムであり、言い換えれば、ヒューマンスケールではどうしようもないような、男性性と女性性、荒々しさと静けさの両面を合わせ抱く、そうした体験やバランスを取り戻すということなのではないでしょうか。

・安全に眠ることができるということと、かなり危険であるということが両隣にあるというのは、男性原理と女性原理のような気がしていて、やわらかい女性原理に包まれて安心に眠ることができる場所と、荒ぶる危険な男性原理の場所とがある

・女性性と男性性もそうで、荒ぶる力を一つ発動させても、荒ぶるだけでは秩序は生まれない。エネルギーに満ち溢れていても、それを一つの安定した語りにするためには、静まりを待たなければならない。例えば、鎮魂という言葉も、魂振り的な荒ぶる力の発動と、鎮魂のような和御魂にしていく静寂の働きの両方があるわけです。

・その両方がないと、心身のバランスも人間関係のバランスもうまくいかない。春夏秋冬もそうです。夏と冬は対極にあって、春と秋は穏やかな女性性とすれば、夏と冬は男性のように極まりなく荒ぶってしまう。そうした両極を行ったりきたりするのが自然や生命の本質なのだと思っています。

・生物学的にいうと、骨芽細胞と破骨細胞もそうですね。片方が骨を壊していって、片方は骨を作っていく。筋肉も壊さないと新しくできないし、休んでいる時間が非常に重要。植物も同じで、冬があるから暖かくなったら芽が出てくる。すべてそうやって、男性原理と女性原理、厳しい時間と落ち着いた優しい時間の繰り返しの中で、生命活動は持続されていくと思うので。

静けさと荒ぶり、安心と畏怖、男性性と女性性、植物と動物、創造と破壊…このあたりの両極の動的なバランスを捉える視点は、分解と合成の相反するものが同時に(時間に先立って)起こっていくといった動的平衡という概念を提唱し、動的な流れの中に生命はあるとする生物学者・福岡伸一さんの視点とも通づるところがあります。

こうしてみると、生命のリズムとは、対極的なものが相互補完的に循環していくなかで生まれるダイナミズムなのではないかという感じが腑に落ちます。人間にしても、誰もが両極を内面に持ち合わせているはずなのに、例えば、いつの間にか男性性と女性性が切り離され、父権的な歴史の中で一方(特に女性性)が隅に追いやられてきたり発露が偏ってきてしまったということなのではないでしょうか

中庸を共有しているから、一つ一つの多様性が生きる

これは、人の群れ方、つまり社会全体のリズムのスケールでも同じです。

・だから、今の時代がどっちの方向を向いているのかということによって、そのときに出す答えとか、デザインするべきことは変わるように思います。今がもし、安全の時代にはいっているのだったら、逆に生命観を高めるようなことが必要だし、荒ぶっている時代なのであれば、逆に安心するようなことを追い求めないといけないし、バランスが大事。そこをちゃんと見極めないと、安全のように見えて、気づかないうちに危険な時代に入っていくことになってしまう。

・無縁社会になりつつあるのは、多様性を目指したことの副作用かもしれない。だからこそ、今コミュニティやソーシャルが言われますが、少し前までは社会主義のキーワードだった。全体主義のような方向へ向かったものが、今度は多様化の方向にいく、そして孤立化してくるとまたつながりをつくる。そうした集合と離散を繰り返されてきたのではないか

生態学的にいうと、パブリシティ(公共性)が中庸であるというのが全体のバランスかなと。特異点に一点集中しないとか。そうでないと、絶滅する。そういう一種の中庸を共有しているから、一つ一つの多様性が生きている。

・パブリシティというのが共通益みたいなもので、そういうものをあらゆる生命が享受して、その前提の上に成り立っている。生命ネットワークの中に僕らが生きている。人間を中心にした民主主義には限界があるのでしょう。

・ヒューマンな個だけに限定しているところが問題であって、ネイチャーはパブリック。誰のために生きてあるというのではなく、みんながみんなのためにつながってみんなを支えているというか、つながりながら共に在る。まさにそれは大いなる調和、

・そういうことを感知した先駆者にはいろいろな人がいるんだけど、近代においてそれを一番表現したのが、南方熊楠と宮沢賢治

・那智でミナカタがやった粘菌の研究なども、生物学と民俗学、自然と文明との間の仲取り持ちをどうてきるかということで、二人は典型的なトリッキーな仲取り持ちなのです。ああいう知恵と力は、現代に本当に必要。

南方熊楠がと宮沢賢治が、宇宙的な調和を目指したという意見に本当に共感します。賢治も芸術と科学との間で、熊楠も科学と宗教とのあいだで、それまで固定化されていた関係性をぶっ壊して心理を求めようとした。そして、それは生命活動の保守本流。それぞれの時代のどこかで、かならずそういう既存領域の編み直しが起こる。源太代的にいうと、イノベーションという言葉になる。

まさに読みながら、南方熊楠のことを想っていました。観念主義的な西欧の学問に対し、徹底的に現実世界に向き合っていくある意味で純粋な科学者であった南方は、その科学的態度の行き着く先が密教のマンダラ哲学などが説いていた精神世界と相反するものではないと直観しており、その結晶のひとつが南方マンダラでした。つまり科学と宗教が必然的に融合していく新たな地平をみていました。

鎌田東二さんは「南方熊楠と宮沢賢治 日本的スピリチュアリティの系譜」というこれまた面白い新書を書かれているので興味ある方はぜひ。

頭で「分ける」世界から「流れ」や「循環」を感じていく世界へ

で、こうしたヒューマンスケールを越えた世界では、人のスケールからは見えないもの、わからないもの、超越したもの、そういった生命的な音やリズムを感じて、キャッチすることが大事になるわけですが、それこそが「祈り」なのではないかと鎌田東二さんは言います。

(第七章:宇宙の縮図 ー聖地から宇宙を見上げるー)
あらゆる芸能は、そういう生命が知っているものを聴き取る以外に方法はないし、そういうものをキャッチした人たちが表現して生まれたものだと思うのです。神楽、琵琶法師、いんどの声明(しょうみょう)も。そういうものが生まれてくるには必然性があったと思うのです。その必然的な摂理の構造がなければ、これほど長い間、伝承されることはなかったでしょう。

・だからこの仕組みには何かこの生命を調整するような構造があって、そういう構造に行きあたったという感覚がある。原理はあるけど、誰もその原理を理論的に認識しているわけではない。直感的に探り当てて、それをイマジネーションの世界で直感的に表現している。それに同調できるものがシンクロしてわかるわけですよね。

祈るということは感謝することだとも思う。過去への感謝と未来への願い。厳しい自然と優しい自然の両方が来ることをしっかりと受け入れて生きている態度にみえる。その態度が、今の僕らの文明に決定的にかけているんじゃないか。

神道しかり、自然信仰の一番の根元にあるのは、あるいは原初的な宗教の根底にあるのは「畏怖」だと思っています。畏怖がなければ感謝もない。大いなるものに対する畏れのきもち路、すごいという畏怖や畏敬の気持ちがあるから、このすごさの中で、「いと小さき者」として生きている自分に対して慎しみも生まれてくるし、感謝も生まれてくる。

そして、最後は太陽と月の話。

(第八章:母なるガイア ー太陽の原理から月の原理へー)
・バックミンスターフラーは工学的な発想で「宇宙船地球号」という概念を主張した。それから五十年経って、地球への眼差しを機械的なものから生命的なものへと変える必要があるように思う。機械を修理するという発想ではなく、生命として捉える。

・生気論というか有機対論的に、全体をホリスティックにどう捉えるかという視点は、古代の一つの考え方としてあった。メカニカルな思考とホリスティックな思考というのは、唯物論と観念論のように、二つの対立する流れとして何千年も持続してきた。

・メカニカルに細分化していく発想と、全体をそのまま全体として捉えるホリスティックな発想とは対極にある。ガイア仮説はホリスティック。ホリスティックな視点との二つの視野を持って捉えようとしていた。

この5千年くらい人類の思考法というのはおおむねメカニカルに細分化していく方向を目指して進んできた。それ以前のアニミズムの時代は、それよりもホリスティックに捉えていたのだと思う。なぜそれが起こったのかというヒントが「時間」「時計」なのではないか。

・太陽とメカニズムは結構結びつくと思っている。太陽の計測から、様々な幾何学的な図形を生み出すことで、ピラミッドやシュメールでいえばジクラットにのような巨大神殿。その暦も全部「わける」という発想。要素に分けて分割。

・ところが月というのはグラデーション。毎日毎日微妙に変わっていくから、一定に分割するというはっそうよりも、やっぱり循環。なので、月とホリスティックは結びつき、月と女性、太陽と男性となる。

生命のリズムや流れを感じ取るというときには、機械論的な視点で「分ける」ことや力と結びついてきた太陽・太陽暦よりもむしろ、グラデーションの中で全体の循環と結びつく月や太陰暦の方がしっくりくる感じがあります。

人の体内の水分の7割は海水と成分構成が近いと言われますが、潮の満ち引きや収穫のタイミングと同様に月の満ち欠けに影響を受けるのはとても自然なこと。僕は毎月新月のタイミングでファスティングをしているのですが、食べ物を入れずに感覚が研ぎ澄まされていくと尚更それを感じます。
(余談ですが、月のリズムを感じるサポートに月暦アプリも色々使ってましたが、シンプルで使いやすいおすすめはこちらのアプリ。あと、リズムや時間感覚を探求されていて、以前にこちらのイベントでもご一緒させていただいた三浦祥敬さんが教えてくださった地球暦も素敵です。)

これまでの人類の歴史は、言語と論理を駆使していかに正しく「分ける」かに注力してきたわけですが、そうした文節的・要素還元的な世界の理解・把握の仕方の限界が明らかな今、そしてそもそも絶対的な正義や正しさが存在しない世界で自我の堂々巡りに抜け出すには、人間のスケールを超越したものへと調和していくことで自我を超えた全体性とのつながりを取り戻していく必要がある。それは、頭で「分ける」世界から「流れ」や「循環」を感じていく世界への移行でもあります。


そういう意味では広い意味でのテクノロジーも大きな転換点を迎えているように思います。これまではとにかく無駄を省いて便利に快適にすることで、生命力を退化させる方向に働いてきたわけですが、これからはむしろ、人が自分の内面や取り巻くシステムについて、これまで気付けなかったことを感じる力・気付く力(センシング&アウェアネス)力を高めたり、本来持つ生命力を高めていくことをサポートする方向が鍵になるはずです。

ガイア理論のジェームズ・ラブロックの新作「ノヴァセン」のように人類が生命の大きな流れの中でサイボーグへと次なる未来を託す世界はもちろんありうるとは思うのですが、多くの人にとってはまだ簡単に受け入れられるような物語ではないとも思います。

それよりも、人間が本来持つ生命感覚や身体感覚を解き放つことを支え、生態系における循環や見えないつながりを感じ、地球スケールでの気付きを高めていくような方向へのテクノロジーやアートの役割が必要なのではないでしょうか(エコロジー×メディアアートの領域や竹村先生などの実験で、すでに起こり始めている部分もありますね。中国のような監視による不安・恐怖駆動の社会とは逆の方向で)。

そして、人類が地球における本来の役目を果たし、地球や他の生き物と共に繁栄していけるようなリジェネレーション(再生)の物語がこれからの時代には必要になっているのだと思います。

そんなことを感じさせてくれた一冊。ポスト人間中心、自然のリズムや流れ、人の世界に閉じない地球や他の生命との共繁栄・再生(リジェネレーション)などのキーワードに興味がある人にぜひおすすめの一冊です。

ヒューマンスケールを越えて -わたし・聖地・ガイア- / 鎌田東二・ハナムラチカヒロ


ーー(以下、雑多なメモ全文)ーー

【第一章:わたしという現象 ー人生とは演技の連続であるー】

・日本語の「もの」という言葉はじつに多義的で両極を含んでいます。ふつう「もの」と言えば、物質的・物体的な「物」だと思う。しかし、物の怪や大物主などというと、霊とか神を指す。また「者」といえば人格的な存在を表す

・つまり、ものは物という物質的次元、者という人格的次元、霊という霊性的次元を含んでいる。世阿弥も「物学」と書いて、それをものまねとよませている。

・ブッダが伝えたヴィッパサナー瞑想という観察の瞑想は自分の自我を消していく。でも密教は、ヒンドゥー教やバラモン教の影響が濃い。アートマンという自我を拡大させて、ブラフマンという真我に一致させていくという理論が採用されている。自分を思い切り拡大していくやり方と、自分を消して外を全部入れるというやり方の二つがある。

・感覚をすべて切り離して観察する仏陀の瞑想法に対して、密教はあらゆるものを感覚的にしていくというか包摂する。音を使い、匂いも使い、曼荼羅みたいなものを使って包摂していく。互換全部を使って心を刺激することで、自己をとかしていく。自己の拡大なのか、世界の自己かなのか、アプローチの方法は違うけど、両方とも最終的に目指すところは近しいのかもしれません。

・だけど、私たちの世界は、もっとぶよぶよしているというか、よくわからないもの、そんなに分節できない部分を含み込んでいる。我々はそれを分設して、われわれの目に沿ったヒューマンサイズにして理解するわけですね。でも、本当にヒューマンスケールがリアルなのかと言ったら、そうではない。ネイチャーそのものとかヒューマンサイズを超えるための仕掛けを見つけていく必要がある。

・ジェームズ・ラブロックの「ガイアの時代」という本があって、地球有機仮説とも言われますが、地球を一つの生命として捉えた世界観ですね。彼は、微生物のネットワークや、大気の流れから岩石といった無機物までを含めて「地球は一つの有機体であるといった説を唱え、僕はそれを読んで衝撃を受けたのです。

・20世紀前半はモダンの時代です。美しいデザインというのは、いかに合理的・効率的に機能を満たしていくのかが課題とされるようになっていきます。それに対してアンチテーゼの出てくるのが1960年代以降。合理的な設計だけで本当に人間は幸せになったのか。そんなことが突きつけられ、そこからポストモダンがはじまります。

【第二章:異化するデザイン ー見方を変えると風景が変わるー】

・アングラ演劇はそれまでの戯曲に対して、「人間は理性的に喋るわけではない」というテーゼ、つまり意識に対して無意識を前に出してくるようなセリフ。それに対してオリザさんは、自分がやっている現代口語演劇は、「人間は主体的にしゃべるわけではない」というテーゼであるという。

・つまり、セリフというのは自発的にしゃべるものではない、周囲の状況が喋らせるのであると。まさに場の理論。実は場の方が人間をしゃべらせている。これは心理学で言うと、アフォーダンス(ジェームズ・ギブソンの造語で環境が動物に与える意味のこと)に非常に近い。人間というのは自分でそこにいるわけではなく、色々なものに条件づけられて、その中で現象として現れている。だからセリフも現象として現れているのだと。生態学的。

【第三章:メタノイア ー自分の在り方を転換(メタ)するー】

・シュタイナー研究者の高橋巌さんからの重要な教えの一つが「メタノイア論」で、メタノイア、悔い改めるということは道徳的な振る舞いではなく、感覚を全開することなのだ」と。ノイアつまり知性や視点を意味するヌースをメタすること。

・感覚の全開がメタノイアだという話は、観音様にも通づる。千手千眼の手や目の数の多さは感覚の多さを表す。色々な状況の人たちの感覚に合わせて返信返納しながら向き合うことが出来なければならない。

・人間にダイレクトにアプローチするのか、それとも人間が集う場所にアプローチする環境デザインを通じて間接的に眼差しへアプローチするのか、この二つのデザインのアプローチがあると思います。その方法にも物理的な方法と、心理的な方法がある。

・仏陀の唱えた仏教はどちらかというとシンクロをさける方向なのだと思います。対象物や記憶を通して受ける感覚からいかに心を客観的に切り離してシンクロさせないかということをやっている。逆に神道は、神主が巫女に上をおろしたり、積極的なシンクロを目指している。

・シンクロを目指す神道と、シンクロをさける仏教が日本にあって、統合されてきた。

神はあるもの/仏は成るもの
神は来るもの/仏は往くもの
神は立つもの/仏は座るもの

【第四章:意識の進化 ースケールが変わると正解が変わるー】

・そこから人間の進化は肉体ではなく、環境の領域に移る。1万5千年まえに定住生活が始まって、さらに5千年ほどまえに都市ができて、自然と人間との間に線引きがされる。そして150年前に産業革命が起こって、自然の中でさらに特異な存在になっていく。

・自然や聖なるものは安全で輝かしいというのは本当に一面的な見方。危険にさらされるかもしれないような、あるいは人間の理屈では理解できないようなことが起こっても、それは自然にとっては必然。「ちはやぶる神代」というのはまさにそういう概念。

・デザインも心身変容技法も、突き詰めると転換する、メタモルフォーゼするということに尽きる。転換、つまり僕の言葉で言えば、異化や眼差しを変えていくということですね。

・デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)」という言葉に近代の呪縛がある。それに対してフロイトが指摘したのが、自分がこうであると理性的に考えている自分というのは、果たして自分なのかということ。

・仏教の縁起では、物事全てを実在論的にみずに、関係論的にみる。小さなスケールでは不正解にみえることが、大きなスケールで見たときには正解にであることは多々ある(砂糖菓子のジレンマ)

【第五章:聖地の創造 ー生命力を活性化させる場所ー】

・聖地の起源というのは、人間だけでなく、あらゆる生命が生存するために発見していった場所の感覚だと思うのです。それが人類にとっての聖地になっていった。

・生物が生物として機能し、活動していくためには、ある程度安全性が担保されなけれならない。つねに危険をさらせていたのでばストレスフルで、個体も滅ぶし、種全体も危険に陥っていく

・人間だけでなく、色々な動物は、そういう自然の圧倒的な威力や息吹を感受して、それに対してリアクションをしている。そのリアクションの中に、動物界の聖地の原型的想像がある。

・初期の動物の像は、動物神的なものが多かった。それがやがて人間的なものになっていく。聖なるものの感覚がよりヒューマンスケールいなっていくプロセスを表している。自然から動物を経て人間へと移行していく。

・神も聖地も元々はネイチャースケールであった。ネイチャーの力と息吹を最も強く感じるところであったのですが、それはやがてヒューマンスケールになっていって、人工空間である都市の一角に神殿を作り、人間的な造形になっていく。ヒューマンスケールな宗教文化が生まれて生きて、その聖地も極めて人間的になっていく。

・だけど、本来的には聖地は根源的な生命力そのものを目覚めさせたり、強化したり、喚起する力を持っているわけです。

・目的は秩序の維持。安定させるためには、生命的にも安全でなければならないし、心も安心し、リラックスでいないといけません。その両方をある程度担保できないといけない。その安心するための装置として、仏教や神道の祈りというものがある

・人間は自然の中で生きていくためには「いと小さき者」なわけです。自意識をもってしまって、自分がいかに弱い存在であるかをしってしまった。だから、安心・安全を切望するという精神性を持っている。衣服や建築など、自分を覆うものを、何かに包まれて生きていくということを本能的に求めている。ある種の安全感とか安心感とかを生み出す。

・人間はそうした自分を覆うものを求めて、文明を発達させてきた。特に、狩猟民族から農耕民族に移り、定住生活をしなければならなくなったときに、生活空間自体を守るものとして都市を作って生きた。

・しかし、そうやって都市をつくってきたはずなんですが、ところが、都市は今、もっとも地球環境的に不安定で、破壊的ななものになっている。色々な電波が飛び交い、食品には添加物やどんどん入れられて、人の損得感情や経済的な競争を煽る情報にみてちていて。★★

・実はは、都市はものすごく危険な場所になっているんじゃないか。それが、人間の生命に影響を及ぼしていて、人は鬱になったり、心身がおかしくなったりしている。だから理由もわからないまま無意識的に何かを浄化することを求める気持ちが高まっている。★★

・今までは、危険はすごくわかりやすいかたちで迫ってきた。災害のような形であったり、飢餓や貧困のような形であったり、でも今は、ある程度表面上はみたされているようにみえるこの都市において、じつは危険が透明化している。そして、そのことに気づけていないぐらい人間の感性が鈍っているんじゃないかという危険性を感じています。★★★★

・祈りがいのりたりうるためには、内的平静というか、静けさは絶対必要です。聖なるものは静かだと思っている。比叡山に行くと、自然が発する微細は物音、木が鳴るちょっとした音、鳥の泣き声が非常に鮮明に聞こえます。

・これを脳科学的に計測した大橋力さんは、熱帯雨林の音の量と渋谷のスクランブル交差点の音の量を比較した。渋谷の音の量は50デシベルくらいで、かなりの騒音。普通だと不快で心が不安定になるような騒音として受け止められる。ところが、熱帯雨林の森林は、それ以上の70デシベルを優に超える音量であるにもかかわらず、そこにいった時に、すごく気持ちよくリラックスできて安心し、それを楽しめるというか、味わうことができる。自然のリズムとの調和ということです。それは自分の体内のリズム、つまりバイオリズムと、調和するものを身体は感じ取っている。★★★★

・自然には陰影があって、波打っている。その波打っている状態そのままにそれが感受できた場合、一つ一つの微細な動きが私たちの細胞の一つ一つを開いていくような力を持っている。ですから、熱帯雨林は、そのマックスががーっとくる圧力じゃなくて、分散された微細なマッサージのようなかたちで、一つ一つが我々に振動として伝わってくる。ハイパーソニックな振動なのです。だから、その振動、響きも一つ一つが生きている。そういう風に感受できた時、僕らの生命感はひらいていく。★★★★

・渋谷の方が音が小さくて、熱帯雨林の方が音が大きいのに、熱帯雨林の方がなぜ静かに感じるのか。ポイントになるのは、波長やリズムが調和しているかどうかなのではないかと思うのです。熱帯雨林では一つ一つの音は大きかったとしても、ある秩序に沿った音なのではないか。自然の法則がそうした秩序の全体性を担保しているんですけど、街の中はばらばらのリズムがたんに集まっているだけ。たから都市では不調和のリズムの中に人間がいて、きれいな関数の波動になっちえない。バラバラのリズムが一気にやってくる都市に対して、熱帯雨林はリズムが同期した状態でくる。その違いなのではないかと思うのです。

・瞑想も同じように、細胞がてんでんバラバラに動いているのを意識によって調和させていく効果があるのではないかと思っています。体の中に順番に意識を巡らせていくことで、バラバラだったリズムを同期させていく。外からの刺激によって身体に様々な不調和が起こり、それが病気を起こすのであれば、調和すると体調が整うのは当たり前のことだと思います。

・身体の不調和と同じように、いまの文明のリズムと自然の持っているリズムとかものすごく不調和になっていると思っています。アミニズムの時代とか原始的な社会とか、人類史の大半は、自然のリズムと人間の生活のリズムや文明のリズムとがうまく同期していたと思うのです。

・人間の中にも、行動のリズムと胃腸の動きのリズム、脳波のリズム、心臓の鼓動のリズムなどが全部調和して無理なく一体的に動いている。本能的に動く動物はおそらくそうやって調和して動いていると思うのです。しかし、自然に対して支配的になってきた人間は、文明を主として、自然を従とする構造へ急速にシフトし、人間だけのリズムを作り始めた。★★★★

・人間の中だけで同期したリズムがーそれも調和していないと思うのですけどー、自然のリズムからどんどん乖離していって、「24時間都市」のようなものになる。見えない部分で色々な不調和が生まれてくる。でも、表面上は不調和顔起こっているようにはみえず、調和しているような格好を装っている。

・ところが、もうその不調和が明らかにみえるかたtになって、しかもものすごい歪みとして表面に出始めているだから、そういう人間社会や文明が持っているリズムと、自然のリズムをちゃんと合わせていくような方向へデザインの舵を切らないと、いよいよ乗り越えていけないぎりぎりのところまで来ているのだと思っています

・今、人間の文明は便利にはなったけど、とっても不自然。それをうまく、自然との調和の方向に持っていくためには、ある種の便利さを失い、痛みを伴うかもしれない。でも、どこあでショック療法のようなものが必要なのではないかとも思っています。

・いまの僕らの生活は自然のリズムと調和していないことを、一人ひとりが気づいて別の道を本気で歩み始めないといけないと思うのです。

・だから、本当にデザインすべき対象は、僕ら自身のまなざしや意識であり、全ての人間が他者に優しく、自然に優しく、そして調和を目指す意識を持った時、地球は安全な場所に変わっていく方向へようやく歩めるような気がしています。ひょっとするとそれが、さっきの人間が祈り続ける場所が特殊化していくという話とどこかでつながってくるのかもしれません。★★

・生物学者のライアル・ワトソン「アースワークスー大地のいとなみ(1989)」という本で、人間が維持してきた聖地というのもには宇宙的な調和があって、そこで思う存分に眠り、夢をみることができると言っている。「われわれには、本質的な超里芋言うべきものについての意識と希求があるらしいのだ」「われわれはみな、本質的に大地のことを身体で知っていて、この天与の叡智を表現するゆとりさえ与えられれば、この惑星上でもとりわけ調和が取れている場所の方へと苦もなく、しかも争いがたく、流れてゆくものらしい。そこれこそ、思うままに夢をみ、より偉大なるものに連なる喜びをあじわうことができる」

・動物として、生き物として、人間として、思う存分に眠り、深い欲望に取り巻かれた夢ではなくて、この世の根元や自然の根元の神聖なエネルギーと交流するような夢を存分に見えることができれば、生きる活力というか、よみがえりがあるわけですよね。

・そうした地球や自然との調和的な感覚をなくしてしまうと、我々自身の全体も間違いなく破局的なものへと向かう。そうしたらsれおは、自然の側からー自然の逆襲でもないからー元に戻るための循環がひきおこされる。おのずと身震いしてもとの状態に戻そうとする時に、人類は振り落とされて破滅するかもしれない。★★★

・私たちはまぎれもなく、身体も心も自然の一部ですから、自然との調和の中に入られなば、個人の中での調和もありえないと思うのです。そして地球を一つの生命体としてみた時に、体内における経絡のツボのような位置にあるのが聖地なので、そうした場所がより大きな調和を保つように適切に扱うデザインが、地球の医学へとつながっていくような気がします。★

・人類は7万年前の認知革命で、自分がみているとかみられていることに気がついてしまった。自意識の芽生ですね。そうした自分の中にある見えない眼差しを担保していたのが、おそらく宗教の倫理観であったり、神や超自然的存在という補助線だったのではないかと思います。自分は目に見えない大きな自然法則に準じていて、大きな調和の中にいるという感覚が人の眼差しのないところで降る前位の正しさを担保するように思います。

・本当に重要な道徳であったり、倫理観であったりするものは、自分が自分に向ける眼差しであるはずなんです★自意識ではなく、その美意識を育てていくことは、芸術がはたる使命の一つかもしれない。自意識というのは、外からどうみられるか、人から自分への眼差しに応答すること。

・ライアル・ワトソンも生命の美学という観点から、自然と人間との関係をどうやって結び直すかを再定義しようとしたとと思っています。有名な生物学者のデズモンド・モリスの弟子ということも関係して反発されたのかもしれませんが、ワトソンの研究がまるごとオカルト扱いされてしまうのはとても残念だと思います。

【第六章:生命のリズムー両極を行き来して進むー】

・あえて危険をおかすことで生命力を活性化させる方法と、安全と安心によって緊張を解き、深いリラックス状態を生み出して、命の海に立ち還る方法とがある。不安定な生命を危険に晒すことで、その反発力で生命力が立ち上がってくるのと、一方で囲まれて安心して座って修行するのとの両方がある。これもダイナミックバランスというリズムですね。

・生命力を修復する時間と、生命力が反動させる時間の両方が必要で、陰と陽の関係になっているのかなと思います。特に都市の中とか住宅の中は安全に守ることをもくてきにしてつくられた場所だから、逆にそこに安寧を見出してしまうと生命力はどんどん弱っていく。

・今僕が本当に危機感をおぼえているのは、生命力の衰弱です。基本的に文明は、楽をするとか、安心する、安全であるということを追求してきたんですね。

・一方でその追及の果てに、自分のホメオスタシスが衰えていく。住宅をつくっても、空調で環境を整備して快適性を作り出し、体調が悪いとすぐに薬を飲む。だんだんそうやって、自分の生命力が持っていた機能を外注していった。★

・文明の発達や道具の進化というのは、人間の生命力そのものを退化させる危険性があるということを認識する必要がある

・自我を手放せないと、リセットできない何かがある。自我に取り巻かれていると、自我の堂々巡りの中にはいってしまって、自分のヒューマンスケールの世界だけで生きていくことになる。

・本当に生命にとって重要なのは、自分の自我がつくりあげてきたヒューマンスケールを超えるものにアクセスできること。自然とか宇宙とかそういうところに至らないと、本当の意味での生命観の深い深層海流に乗れないのですね。そのための仕掛けや、思想や、いろいろな技法があると思うのです。

・安全に眠ることができるということと、かなり危険であるということが両隣にあるというのは、男性原理と女性原理のような気がしていて、やわらかい女性原理に包まれて安心に眠ることができる場所と、荒ぶる危険な男性原理の場所とがある★★★

・ジェンダーがはっきりしている聖地は、四国遍路と吉野熊野周辺。熊野に入っていくと、山の感じや森の感じも、本当に母胎のようです。吉野金剛界(男性性)と熊野胎動会(女性性)があって、その二つが中和される融合点が天河大弁財神社

・男性性と女性性の二つの良曲が引き合い融合される場所と、既に中世の文系に出ている。ですから、陰陽が相和し、和合する場所として天河がある。女と男、隠と陽。あらゆる相反する両極性の陽和点があって、その融合のゼロポイントとされた。

・女性性と男性性もそうで、荒ぶる力を一つ発動させても、荒ぶるだけでは秩序は生まれない。エネルギーに満ち溢れていても、それを一つの安定した語りにするためには、静まりを待たなければならない。例えば、鎮魂という言葉も、魂振り的な荒ぶる力の発動と、鎮魂のような和御魂にしていく静寂の働きの両方があるわけです。★★★

・その両方がないと、心身のバランスも人間関係のバランスもうまくいかない。春夏秋冬もそうです。夏と冬は対極にあって、春と秋は穏やかな女性性とすれば、夏と冬は男性のように極まりなく荒ぶってしまう。そうした両極を行ったりきたりするのが自然や生命の本質なのだと思っています。

・生物学的にいうと、骨芽細胞と破骨細胞もそうですね。片方が骨を壊していって、片方は骨を作っていく。筋肉も壊さないと新しくできないし、休んでいる時間が非常に重要。植物も同じで、冬があるから暖かくなったら芽が出てくる。すべてそうやって、男性原理と女性原理、厳しい時間と落ち着いた優しい時間の繰り返しの中で、生命活動は持続されていくと思うので。

・だから、ずっと安心のほうばかりを追い求めるのはバランスを欠くことがある。危険を全部排除して、美味しいところだけ求めるような、都合の良い方向へテクノロジーは向きがち。それがバランスを欠くことを非常に危惧しています。

・だから、今の時代がどっちの方向を向いているのかということによって、そのときに出す答えとか、デザインするべきことは変わるように思います。今がもし、安全の時代にはいっているのだったら、逆に生命観を高めるようなことが必要だし、荒ぶっている時代なのであれば、逆に安心するようなことを追い求めないといけないし、バランスが大事。そこをちゃんと見極めないと、安全のように見えて、気づかないうちに危険な時代に入っていくことになってしまう。

・われわれが生きていくためには、多様性や選択肢の広がりは絶対に必要です。それは確保されねばならない。だけど、安心、安寧、安全だけの中にいたら、成長というか、変容は起こらない。

・いま多様性がこんなに叫ばれているのは、全体主義からの反動からなのですね。ナショナリズムのとる一つの形として全体主義があって、一人ひとりの個性より、組織とか社会とか国家などのために身を捧げる価値観が重要とされた。そんな全体主義に不自由さを感じたから、その反発で、今度は多様性だという話になってくる。

・無縁社会になりつつあるのは、多様性を目指したことの副作用かもしれない。だからこそ、今コミュニティやソーシャルが言われますが、少し前までは社会主義のキーワードだった。全体主義のような報告へ向かったものが、今度は多様化の方向にいく、そして孤立化してくるとまたつながりをつくる。そうした集合鳥さんを繰り返されてきたのではないか

・なぜ多様性が大事なのかを考えたい。「みんな違って、みんないい」は、バラバラであることを認め合うことや、違うからこそお互いに補い合うことが、非常に重要だと思う。

・多様性は、普遍的に僕らが共有してうrものがあって、その前提の上で違いや個性を大事にできる

・多様性だけだと一面的(みんな違ってみんないい。だからばらばらで)になってしまう。人間全般や宇宙に通じる普遍性(みんな違ってみんないい。だから協働しましょう)があるのだと思います。

・生態学的にいうと、パブリシティ(公共性)が中庸であるというのが全体のバランスかなと。特異点に一点集中しないとか。そうでないと、絶滅する。そういう一種の中庸を共有しているから、一つ一つの多様性が生きている。

・パブリシティというのが共通益みたいなもので、そういうものをあらゆる生命が享受して、その前提の上に成り立っている。生命ネットワークの中に僕らが生きている。人間を中心にした民主主義には限界があるのでしょう。

・ヒューマンな個だけに限定しているところが問題であって、ネイチャーはパブリック。誰のために生きてあるというのではなく、みんながみんなのためにつながってみんなを支えているというか、つながりながら共に在る。まさにそれは大いなる調和、ハーモニー。

・ライアル・ワトソンがいうように、そういう宇宙的な調和を我々は必要としている。

・そういうことを感知した先駆者にはいろいろな人がいるんだけど、近代においてそれを一番表現したのが、南方熊楠と宮沢賢治です

・那智でミナカタがやった粘菌の研究なども、生物学と民俗学、自然と文明との間の仲取り持ちをどうてきるかということで、二人は典型的なトリッキーな仲取り持ちなのです。ああいう知恵と力は、現代に本当に必要。

・南方熊楠がと宮沢賢治が、宇宙的な調和を目指したという意見に本当に共感します。賢治も芸術と科学との間で、熊楠も科学と宗教とのあいだで、それまで固定化されていた関係性をぶっ壊して心理を求めようとした。そして、それは生命活動の保守本流。

・それぞれの時代のどこかで、かならずそういう既存領域の編み直しが起こる。源太代的にいうと、イノベーションという言葉になる。

【第七章:宇宙の縮図 ー聖地から宇宙を見上げるー】

・あらゆる芸能は、そういう生命が知っているものを聴き取る以外に方法はないし、そういうものをキャッチした人たちが表現して生まれたものだと思うのです。神楽、琵琶法師、いんどの声明(しょうみょう)も。そういうものが生まれてくるには必然性があったと思うのです。その必然的な摂理の構造がなければ、これほど長い間、伝承されることはなかったでしょう。

・だからこの仕組みには何かこの生命を調整するような構造があって、そういう構造に行きあたったという感覚がある。原理はあるけど、誰もその原理を理論的に認識しているわけではない。直感的に探り当てて、それをイマジネーションの世界で直感的に表現している。それに同調できるものがシンクロしてわかるわけですよね。

・いずれそれをある程度、理論的に解明することも可能でしょう。その最初の鍵は、日本では縄文土器や土偶を分析することだと思っています。

・僕が教育を受けたランドスケープデザインも建築も、近代的な技術を前提に組み立てられていますけど、どこか限界がある。今の文明が目指していることって、恵だけが欲しくて、恵じゃないものは全て排除していく。美味しいところだけが欲しい。でも怖いものはいらないんだって排除してきた結果がものすごく歪なことになっている

・めぐみと災いの両方とも受け止める覚悟が、「久高オデッセイ」という映画で久高島の人の生活の中にすごく見えた。だからあれだけ祭りがあって祈りが日常化している

・祈るということは感謝することだとも思う。過去への感謝と未来への願い。厳しい自然と優しい自然の両方が来ることをしっかりと受け入れて生きている態度にみえる。その態度が、今の僕おらの文明に決定的にかけているんじゃないか。

・神道しかり、自然信仰の一番の根元にあるのは、あるいは原初的な宗教の根底にあるのは「畏怖」だと思っています。畏怖がなければ感謝もない。大いなるものに対する畏れのきもち路、すごいという畏怖や畏敬の気持ちがあるから、このすごさの中で、「いと小さき者」として生きている自分に対して慎しみも生まれてくるし、感謝も生まれてくる★★★★★

【第八章:母なるガイア ー太陽の原理から月の原理へー】

・バックミンスターフラーは工学的な発想で「宇宙船地球号」という概念を主張した。それから五十年経って、地球への眼差しを機械的なものから生命的なものへと変える必要があるように思う。機械を修理するという発想ではなく、生命として捉える。

・生気論というか有機対論的に、全体をホリスティックにどう捉えるかという視点は、古代の一つの考え方としてあった。メカニカルな思考とホリスティックな思考というのは、唯物論と観念論のように、二つの対立する流れとして何千年も持続してきた。

・メカニカルに細分化していく発想と、全体をそのまま全体として捉えるホリスティックな発想とは対極にある。ガイア仮説はホリスティック。ホリスティックな視点との二つの視野を持って捉えようとしていた。

・この5千年くらい人類の思考法というのはおおむねメカニカルに細分化していく方向を目指して進んできた。それ以前のアニミズムの時代は、それよりもホリスティックに捉えていたのだと思う。なぜそれが起こったのかというヒントが「時間」「時計」なのではないか。

・太陽とメカニズムは結構結びつくと思っている。太陽の計測から、様々な幾何学的な図形を生み出すことで、ピラミッドやシュメールでいえばジクラットにのような巨大神殿。その暦も全部「わける」という発想。要素に分けて分割。

・ところが月というのはグラデーション。毎日毎日微妙に変わっていくから、一定に分割するというはっそうよりも、やっぱり循環。なので、月とホリスティックは結びつき、月と女性、太陽と男性となる。

ーー(雑多なメモ終わり)ーー