マツタケをめぐる生命と経済の絡まり合い、進歩を前提としない資本主義、マルチスピーシーズによる世界協働構築(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Tsing, 赤嶺淳)

「マツタケ 不確定な時代を生きる術」
2021年を振り返ってトップ5に入る本。

著者は米国の文化人類学者 Anna Tsing、訳は赤嶺淳。
原題「The Mashroom at the End of the world」というタイトルの通り、マツタケをめぐる物語が綴られているのだが、「Possibility on the Life in the Capitalist Ruins(資本主義が瓦解した場における生の可能性)」という副題が示すように、グローバルな資本主義社会における生への新たな解釈を試みた本でもある。マルチスピーシーズ人類学の事例として取り上げられることも多い。

広島に原子爆弾が落とされた後の荒廃した土地に発生した最初の生命はマツタケだったという話にも驚いたが、原爆やチェルノブイリ、ベトナム戦争、グローバル資本主義、難民・移民、円高、日本の里山の荒廃など、一見ばらばらに起こって見える事象が、マツタケを軸に大きな物語として語られていく様は圧巻である。

生態的な観点でも面白いので菌類・きのこ好きの方はもちろん、ポスト資本主義的なテーマや限界を迎える近現代産業社会をマルチスピーシーズ的な観点から再解釈し直すことに関心がある方はぜひ読んでみてほしい。(なお、後述するが、本書は資本主義終焉論や安易なポスト資本主義の本ではない。)

出版は2015年9月(邦書は2019年)。
偶然にも僕は2015年の出版当時カリフォルニアでカンファレンスに参加していたのでよく覚えているのだが、アメリカではトランプが確かまだ共和党予備選くらいのタイミングだった。まさに本書のテーマでもあるPrecarity(不安定性)時代の一つの象徴だったようにも思える。

新しい本ではないが、日本でもマルチスピーシーズ人類学・民族誌の盛り上がりと共に気になっている方も増えているのではないだろうか。Ecological Memesで昨年開催した「AWAI Global Gathering vol.3『見えない世界とのつながり:微生物、プラネタリーヘルス、自然治癒コンクリート、そしてマルチスピーシーズ人類学』にて共同代表のShuheiさんも紹介してくださった本だ。

人と他の生命の相互の絡まり合いや分かち難さを扱うマルチスピーシーズ人類学の可能性を自分なりに深めるためにも、本書が提示してくれる視点を雑多ながら書き留めておきたい。

ー本記事の目次ー
・人間が支配できない妖艶なるマツタケの生態
・不安定な環境下での共生存の可能性を思考するマツタケの物語
・進歩と拡大を前提としない資本主義
・資本主義の周縁から生成していくポリフォニックな世界
・マルチスピーシーズ(複数種)の絡まり合いによる世界協働構築プロジェクト
・生命の絡まり合いから切り離す「疎外」のメカニズム

【まつたけ雑記:マツタケ 不確定な時代を生きる術(Anna Tsing, 赤嶺淳)】
マツタケその1:生命と経済の絡まり合い、進歩を前提としない資本主義、マルチスピーシーズによる世界協働構築
マツタケその2:汚染という可能性、自己完結しない脆弱な個、マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅
マツタケその3:スケーラビリティ、撹乱化のビジネス、潜在的コモンズとLife-affirming(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Ting, 赤嶺淳)

人間が支配できない妖艶なるマツタケの生態

まず、なぜマツタケ?と気になっている人も多いかもしれないが、
本書を読むとマツタケの妖艶な魅力に引き込まれていくこと間違いなしである。

なぜマツタケなのかを理解するために、生態学的な観点から重要なポイントが2つある。

1点目はマツタケは、宿主樹木(ホストツリー)との種間関係の中で育つために、人工的に栽培することができないということ。2点目は、マツタケが発生するのは、(人為的に)撹乱された森林であるということだ。

マツタケの主なホストツリーはアカマツだが、アカマツは伐採後の陽当たりがよく、あらわとなった無機質土壌を好んで発芽する。特に日本では里山に代表されるような、適度な手入れと伐採による人為的撹乱によってアカマツが生育しやすい環境条件が生まれる。

しかもマツタケは樹木を養う能力や乾燥耐性を高める能力を有しており、そのためにそうした他の樹木が育ちづらい場所でもアカマツは育っていくことができる。逆に撹乱が起こらないと、森林の植生遷移の中で、広葉樹が覆っていくとマツの生育は妨げられる。マツタケは、植物と外生菌根関係を持つ菌類の子実体であり、宿主樹木とともに育つため、人工的に栽培するのは困難といういわけである。

※このあたりは、Ecological Memesが運営するあいだラボにて、赤石先生をお招きした森林生態系と菌類ネットワークのセッションでも扱ったところなので、メンバの方はアーカイブをチェックしていただきたい。

あいだの生態系研究所 vol.3 菌類ネットーワークから見るあいだの生態系(赤石大輔 氏)より。図解デザインはYusuke Watanabeさん。

つまり、マツタケは人間が発生を管理・操作できない生命でありながら、適度な人為的環境撹乱を必要とするわけである。「自然」を飼い慣らし、管理・支配することを前提としてきた近現代産業文明の征服を逃れつつも、一方では、その生が人の営みと密接に絡み合っているという非常に妖艶な存在なのである。

・この本はキノコをめぐる旅についての物語である。その旅とは、不確定性と不安定性のあり様、つまり、安泰という保証がない生について探求するものだ。

・1991年にソ連が崩壊した時、突然国家からの補償を失った何千人ものシベリア人たちが森に押しかけ、キノコを狩ったという記事を読んだことがある

人間が発生を操作することができないキノコの生命は、私たちが所与のものと考えていた社会が崩壊した時には、恵であり、拠りどころともなる。

不安定な環境下での共生存の可能性を思考するマツタケの物語

だが、そうしたマツタケをめぐる物語が、「不確定性と不安定性のあり様、つまり、安泰という保証がない生について探求」であるというのはどういうことか。マツタケがプレカリティ(不安定性)というキーワードと連関づけて語られる理由を探るには、生態学的な側面に加え、マツタケの経済的な側面に踏み込んでいく必要がある。

つまりマツタケが人間社会の中で高価なものとしてグローバル資本主義のど真ん中で取引され、しかも、それを担うのは、資本主義社会からはじきだされた、あるいは、周縁でその日暮らしをしている世界中のマツタケ狩りたちだという事実だ。

・職業としてマツタケを狩ることは、ほかにこれといって生計を立てる手段がない人々にとって、なんとか食べていく手段としてまだマシな方である。しかし、これはいったい如何なる経済なのか?マツタケ狩りは自らの意志で狩っている。会社に雇われているわけではない、商業目的に野生キノコを採取することは、保証のない不安定な生計の好事例である

・本書では、マツタケの取引と生態を通じて、こうした不安定な生計と環境についての物語をとりあげる。

・それは、モザイク状に無制限に広がり、絡まり合う生き様のセンブリッジ(よせ集まり)であり、更なる時間的リズム(temporal rhythms)と空間的円孤食う(spatiral arcs)のモザイクに対してひらかれている。

・今日の不安定性が地球規模の状況だととらえることによってはじめて、わたしたちは、このこと、世界の現実に気づくことができる

マツタケのこうした生態と経済をめぐる物語に着目することで、撹乱された不安定な環境下で共存する可能性について思考することができるのではないか。マツタケはひとつの共生存の在り方を提示してくれるのではないかというのが本書の主題だ。

Photo by free stock

進歩と拡大を前提としない資本主義

経済学と生態学の接合点について著者は、

経済学を生態学に、生態学を経済学に還元することは拒みたい。とはいえ、経済と環境には一つの関係性が存在している。

とした上で、
テーマになってくるのが「進歩と拡大からの解放」つまり、進歩と拡大を前提としない資本主義である。

・商業について、現代の商取引は、資本主義の持つ制約と可能性の中で営まれている。

・それでもマルクスの足取りをたどりながら、20世紀の資本主義学徒たちは、進歩を内在化し、ただ一つの趨勢とみなし、それ以外のことを無視してしまった。本書では、深刻な影響をもたらすこの前提に依拠せずに、いかにしたら資本主義を学ぶことができるのかを提示したい。

…進歩を前提としない資本主義はいかなるものなのか?それはつぎはぎだらけに見えるかもしれないが、それでも富の集中は可能である。なぜならば、想定外のパッチで生産された価値を資本に充当してしまうからである。


・生態学については、人間による自然の支配を進歩だと仮定するヒューマニストは自然をロマンに満ちた半近代的空間とみなしてきた。しかし、20世紀の科学者は、進歩を無意識のうちに景観研究の枠にはめ込んでしまった。集団生物学の形成においては、いつのまにか拡大が前提となっていた。しかし、生態学の進展により、種間の相互行為と撹乱の歴史を取り入れた、全く異なる発想が可能となった。

・今日のようにあまり多くを期待できない時代において、撹乱に基づいた生態学を模索してみるのものよい。そうした環境下では、多くの生物たちが調和も征服もせずに、ともに生活している。

マルチスピーシーズ人類学による、資本主義経済と生態学の物語の再定義というのは、なかなかにエキサイティングである。中規模撹乱仮説のように、生態学において撹乱というのは生物多様性を考える上でも重要な考え方である。

しかし、そうした「多くの生物たちが調和も征服もせずに、ともに生活している」撹乱に基づいた環境を、人間の経済活動と絡まり合う物語として語り直していくところに本書の面白みがある。

資本主義の周縁から生成していくポリフォニックな世界

なお、誤解のない様に書いておくと本書は、資本主義終焉論やポスト資本主義論ではない。むしろ、訳者の赤嶺淳氏が以前語っていたことがあったように、Tingの主張はペリキャピタリズム(=周縁資本主義)の色が強い印象を受ける。

そこで強調されるのは、例えば資源を搾取し尽くした挙句、一斉に資本が引き上げた荒廃した土地のような、資本主義的な活動が破綻した場から新たに現れていく非資本主義的な営み(Tingはこれを、規格不変性という意味でノンスケーラブルと表現する)であったり、そうした非資本主義的な営みがあってはじめて、資本主義的な社会が成立しているという相互依存的な事実である。

著者は本の中でも資本主義は全てを包括する単一の体系ではないと書いているし、むしろ、支配的にみえる資本主義システムの間隙でポリフォニック(多声的に)に生成されていく生命の営みにこそ、あたかも全世界一色のように語られる資本主義社会システムを異なる角度から解釈して再構築していく手がかりがあるのではないか。

個人的には、外部不経済やCSRという概念のもと、自然環境を外在化し無かったことにしてきた大いなるツケが回ってきている現代において、安易な資本主義否定に走ることなく、(僕らが絶対独立的に成立していると思い込んでいる)資本主義的な社会システムを、人ならざる存在を含めたポストヒューマにティの視点からいかに生命の網目の中に再び編み直す、あるいは再構築していくか。それを考えていくための補助線を与えてくれる本のように思う。

マルチスピーシーズ(複数種)の絡まり合いによる世界協働構築プロジェクト

本書で語られる物語は、人間と人間以外の存在による「世界協働構築プロジェクト」(と著者がよんでいる)様相をありありと描き出す。

世界を形作るのは、人間だけではない。微生物たちが大気をつくり、菌類たちが土壌を再生し、植物が大気を維持するのを助けている様に、それぞれの生命が生きる過程において自らの世界を変え続け、それらが重なり合う協働作業を通じて世界が形作られている。そして人も、生き延びる過程においてそうしたマルチスピーシーズ・ワールド(複数種が絡まり合って織りなす世界)に参与している、というわけだ。

・世界を形作るのは、なにも人間とは限らない。ビーバーは川の流れを堰き止め、ダムや運河や巣をつくることを知っている。事実、全ての生き物は生態学的な住処をつくり、土をはじめ、空気や水に変化をもたらす。

・生きるための算段ができなければ、種は滅びてしまう。その過程において、生きものはそれぞれ自らの世界を変えていく。パクテリアは大気を作り出し、植物は大気を維持するのを助けている。植物が土で育つのは、菌類が岩石を砕いて土壌に作り直すからである。これらの事例が示す様に、世界制作プロジェクトは、部分的に重なりうるのであって、一つ以上の種に場を提供するのものである。

・人間もマルチスピーシーズが営む世界制作に関与している。人類初期、火は単に料理するための道具ではなく、あたりを燃やす道具でもあった。その結果、動物たちが食用とする鱗茎や草が生えるのを助長し、それらに寄ってくる動物を狩ることができた。

・人間も自ら生きる段取りをする中で、他の生物たちに場を提供し、マルチスピーシーズワールド(複数種が絡まり合って織りなす世界)をつくってきた。作物や家畜、ペットに限らない。マツは菌類のパートナーと共に、しばしば人間が焼き払った土地で生い茂った。明るくて開放的な空間と露出した無機質土壌の利点を生かすため、マツと菌類は共同した。人間とマツと菌類の生きる算段は、自らのためでもあり、また他者のためでもあった。マルチスピーシーズ・ワールドである。★★★

・その過程を通じ、私たちの惑星は変化させられてきた。それらの過程を観察するためには、人新世の「人類の」が持つ影の部分に、私たちの注意を再び向け直さなければならない。

ダナ・ハラウェイの言葉を借りれば、人間という単一種が前面に押し出されてしまう「人新世」というよりもむしろ、「資本新世」や「植民新世」、さらには土と共にを意味する「クトゥルー新世」という方が、マルチスピーシーズの世界観にはフィットするのかもしれないなと思いつつ、いずれにせよ「人類の」が持つ影の部分に向き合わなければならなのは明白だろう。

・1945年に広島が原子爆弾によって爆破されたとき、荒廃しきった土地に発生した最初の生命はマツタケだったそうである

・原子を掌握することは、人類が自然を管理する究極の夢であった。同時にそれは、その夢が崩れていく端緒ともなった。広島に投下された原爆が事態を一変させた。意図的であろうとなかろうと、突然、私たちは、人類が地球を破壊し、生活できないものへと転換しうることに気付かされてしまった。

・公害や大量絶滅、気候変動について知れば知るほど、こうした気づきは強まる一方であった。今日の不安定な状況の半分は地球の運命に由来している

・人間が引き起こす撹乱のうち、いかなるものであれば、私たちは我慢して受容することができるのか?巷にはさかんに持続可能性が議論されているにもかかわらず、人間を含めた多種の子孫たちが生きていける環境を残せる見込みは、どれほどあるというのだろうか?

上高地にて

生命の絡まり合いから切り離す「疎外」のメカニズム

複数種が絡まり合って織りなすマルチスピーシーズ・ワールドでは、私たちは自己完結しない不安定で脆弱な存在として、常に汚染(これは次回扱う)にさらされ、変化し続けている。そして、その過程で種内・種間の様々な協働を通して、この世界構築し続けている。

しかし、近現代産業社会はこうした「複数種の絡まりあいの中で、瞬間瞬間に生成する、個体としての本性を持たない自己」に対して盲目になることを推奨してきた。それを本書では「疎外」という言葉で表現されている。

・人類による富の蓄積の歴史は、人間も人間でないものも、全てを投資すべき資源としたことに求めることができる。この歴史は、投資家たちを魅了し、人間とものの両方を疎外しつくしてしまった。

・疎外とは、生活の中で生じる絡まり合いなどまるで気にしないかのように、独立していられることである

・疎外を通じて、人間とものは動産化される。それらは、距離に争う移動手段によって、みずからの生活世界から隔離されてしまい、どこかの生活世界の資産と交換されてしまう。★

疎外とは「生活の中で生じる絡まり合いなどまるで気にしないかのように、独立していられること」である。まさに現代を生きる私たちに起こっていることではないだろうか。

マルクスの疎外論のマルチスピーシーズ的拡張と言えなくもないが、ここでの疎外の指摘が秀逸なのは、グローバル資本主義なるものが食う食われるような生きる場での絡まり合いを必要とせず、世界の単純化・標準化を推し進めてきた様相を的確に表現しているのみならず、その周縁や荒廃によって生まれる多文化的・生命的な側面をも照射していることにあるのではないだろうか。

・このことは、食べることと食べられることのように、単に他のものを生活世界の一部として利用することとは異なっている。

・例えば、食うか食われるかの関係の場合、マルチスピーシーズ(複合種)が生活する空間は、その場にとどまったままである。

疎外は、生きる場での絡まり合いを必要としない。疎外が目指すのは、続立したひとつの資産だけが考慮されるように景観を変えていくことである。それ以外はすべて、雑草かゴミとみなされてしまう。その場における絡まり合いに加わることは、非能率的である様に思われるし、おそらくは時代遅れなものなのであろう。

・したがって、単一の資産がもはや生産されないともなると、その場は見捨てられてしまう。木は伐り倒され、石油は枯渇してしまい、もはやプランテーションの土壌は作物を養えないようになる。富の模索がどこかで再開されていく。

疎外をもとめて単純化していけば、そのシステムからこぼれ落ちたところで瓦解が生み出されていく。それは、一つの資産を生み出すために空間を放棄していくことでもある。しかし、Tingの主張の興味深いところは、こうした放棄された空間から生み出される生命に着目している点である。

・グローバルな景観というものは、今日、この種の瓦解が蔓延している(撒き散らされている)。一旦は死の宣告を受けたにも関わらず、これらの場の中には生命に溢れている場所もある。見捨てられた富の場からあらたなマルチスピーシーズと多文化的な生命が生み出されることがあるからだ。

全球的(グローバル)に不安定に覆われている状況下に当たっては、こうした廃墟における生活を模索していく以外に選択肢は残されていない。

グローバル経済がたどってきた資本蓄積による進歩の歴史を、生命の絡まり合いを気にしなくて済む様な世界の単純化・標準化の歴史として捉え直す視点には一考の価値があるだろう。なぜなら、それこそ、多くの人が直面している、文明社会システムに支えられた現代的暮らしと生き物としての自身の生命性のはざまでうごめく得体の知れないアイデンティティ喪失の根っこであるかもしれないからだ。

そして、私たちは同時に、そうしたグローバル資本主義の周縁で荒廃や瓦解によって生まれる多文化的・生命的な側面にも目を向ける必要がある。人か自然か、資本主義か環境危機か、人間か非人間かといった二元論的見方を手放して、動的なダイナミズムの中で生成される一元論的な世界に向き合う必要がある。

著者の言葉を借りれば、わたしたちが踏み出せる最初の一歩は、そうした世界への「好奇心を復活させること」であり「単純化された進歩という語りに邪魔されることなく、パッチの結び目と生命力を探索して」みること。それをまずは、マツタケからはじめてみようと本書は呼びかけるのである。

長くなってまったので、ひとまずこの辺で。
次回は「汚染」「スケーラビリティ」「潜在的コモンズ」など本書が提供するいくつかの重要な視点を手掛かりに、人間とマツと菌類の生の絡み合いの物語、マツタケをめぐるマルチスピーシーズ・ワールドを掘り下げてみたい。

【まつたけ雑記:マツタケ 不確定な時代を生きる術(Anna Tsing, 赤嶺淳)】
マツタケその1:生命と経済の絡まり合い、進歩を前提としない資本主義、マルチスピーシーズによる世界協働構築
マツタケその2:汚染という可能性、自己完結しない脆弱な個、マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅
マツタケその3:スケーラビリティ、撹乱化のビジネス、潜在的コモンズとLife-affirming(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Ting, 赤嶺淳)

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