マツタケその2:汚染という可能性、自己完結しない脆弱な個、マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Tsing, 赤嶺淳)

前回に続き「マツタケ 不確定な時代を生きる術」から、
マツタケをめぐるマルチスピーシーズ・ワールド、人間とマツと菌類の生の絡み合いの物語を掘り下げていきたい。

ー本記事の目次ー
・Contamination 汚染:染め合う
・生命の絡まり合いの中で汚染されることは世界と自分と新たに出会い続けること
・自己完結しない、脆弱な存在としての個の可能性
・マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅

【まつたけ雑記:マツタケ 不確定な時代を生きる術(Anna Tsing, 赤嶺淳)】
マツタケその1:生命と経済の絡まり合い、進歩を前提としない資本主義、マルチスピーシーズによる世界協働構築
マツタケその2:汚染という可能性、自己完結しない脆弱な個、マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅
マツタケその3:スケーラビリティ、撹乱化のビジネス、潜在的コモンズとLife-affirming(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Ting, 赤嶺淳)

Contamination 汚染:染め合う

本書は、マルチスピーシーズ的世界へいざなう、いくつかの重要な視点を提供してくれているので、それらのキーワードを手掛かりに掘り進めていきたい。

1つ目は「Contamination コンタミネーション」
邦書では「汚染」と訳されている。

マルチスピーシーズ人類学でよく使われる「entanglement」「(複合種の)生命の絡まり合い」という言葉とも少し通ずるが、個人的には非常に重要な指摘を含んだ表現の様に思う。

この言葉が登場するのは「第1章 残されたもの・1 気付く術」だ

集まりは、いかにして「今、まさに生じている」出来事、すなわち部分の総和以上のものになるだろうか?

という、本書で度々登場する問いかけに対する一つの応答として登場する。

・その一つの答えが「汚染」である。

出会うことによって、私たちは染められる。出会うことによって、私たち自身は変化する。

・汚染によって世界制作プロジェクトが変化させられるにつて、相補いあう世界ーあらたな指針ーが創発するかもしれない。

どういうことだろうか。
もう少し読み進めてみると、生存についての話につながっていく。

・生存とはなんなのか?アメリカの大衆向けファンタジーでは、生存とは相手を打ちのめし、自分を守ることであり…征服と拡張の同義語である。

・私はこの用語をそのように使用するつもりはない。そうではなく、もう一つの用法に心をひらいてほしい。

・本書では、生き続けるためーあらゆる種にとってーに必要なのは、共に生きることを可能にするための協働であることを論じたい。協働は差異を超えて作用することを意味し、そのことが汚染へと導いてくれる。協働がなければ、わたしたちは全滅してしまう。

本書における「生存」とは、「相手を打ちのめして、自分を守」ったり、他者を「征服」し、自分を「拡張」していくようなことではない、という。

むしろ、共に生きることを可能にする世界を作り出すために協働することであり、その協働が導く新たな出会いを通じて変化し続けていくこと、全く新しい自己が絶えず生成(generate)され続けていく営みが「Contamination(汚染)」と表現されているようだ。

ここで頭をよぎるのは、生命進化の本質をダーウィンのいう「競争」ではなく、ウォレスのいう「協創」や「相互扶助」と捉えた理化学研究所・桜田一洋さんの「亜種の起源 〜苦しみは波のように〜」だ。

機械になぞらえた競争原理の「終わりなき我欲に従って、他者との戦いを生きろ」とい勧誘を断ち切るには、「生を愛する情熱に従って終わりなき自己創出と世界との協創を生きる」ことに気がつかねければならない。
亜種の起源, 桜田一洋

動的なオープンシステムサイエンスとしての新たな生命科学、つまり、在る(Being)から生成(Becoming)への生の再認識。汚染という表現は、それを人間のみならず、人ならざる種も含めた複合種の視点から照射していっているのかもしれない。

生命の絡まり合いの中で汚染されることは世界と自分と新たに出会い続けること

ちなみに、Contaminationが、辞書には「to make something dirty and dangerous, for example with chemicals or poison」とある。主に化学有害物質による汚染を意味するようだ。一方、語源は、Con(共に)+ Tangere(触れる、混ざるを意味するラテン語)だという。

実を言うと、最初、この「汚染」という言葉には少し違和感があった。少し有害というイメージがまとわりすぎて限定的すぎる印象を受けたのだが、染めあって混ざり合って変化していくという意味だと理解することで納得した。そして、不思議なことに読んでいるうちに次第に、あえて「汚」染という表現がとてもしっくりくるようになった。

もちろん、例えば原爆後の荒廃した土地に生えてきたマツタケのように、資本主義的な営みが崩壊し侵された場に生まれていくものを想起させるということもあるのだが、それだけでなく、世界と新たに出会い染められていく時、それは常に自己ならざる異物と混ざり合ってしまう営みであり、確かに「汚」染なのだという手触りがしてくるのである。

それは、私たちは口の中に含んでいた唾液を、外に吐き出した途端に汚物として認識するように、あいまいな、でも確かな内外の区別をつくりあげてきたことにも近いかもしれない。(ちなみに、私たちの身体を口から肛門までの一本の管が通り抜ける塊とみれば、口の中は外部であるわけで、このあたりの内と外のねじれは面白いテーマだ。僕らはその意味で明らかに世界に食べられているのだから。)

話を戻そう。
マツタケの香りに関する幕間で、こんな記述がある。
日本ではマツタケの香りが子供の頃の思い出とつながる方も多いのではないだろうか。

香りは他者が存在している証である。その存在に対して、私たちは反応しているのだ。反応は、常に何か新しいものへと誘っていく。私たちは、もはや、私たち自身ー少なくとも以前の私たちーではない。

私たちは自己ならざる存在とのマルチスピーシーズ的な絡まり合いの中で、絶えず異物としての他者と出会い続ける。
それはまさしく汚染にほかならない。

その時「私たちは、以前の私たち自身ではない」ほどに新たな自分につくりかえられていくのである。
(暮らしの中でそういう経験をしたことがある方もひょっとすると多いのではないだろうか。だが一方で、このような多方向へ展開し得る生のリアリティからできるだけ疎外させ、画一的な進歩という共同幻想を強化してきたのが近現代社会とも言える

自己と自己ならざるものの区別、個としての自己同一性を保ちながらも、同時に、常に自己ならざる世界と混ざり合っていく動的な矛盾の中にある、というのはまさにそういうことではなかったか。そうしたメビウスの輪の様な状態を常に彷徨い続けるのが現象としての個々の生命なのだろう。(源としての大きな生命自体の営みとの二重性はここでは傍に置いておくことにする)

Photo by free stock

自己完結しない、脆弱な存在としての個の可能性

ここで重要になるのは「個が自己完結しない」ということだ。
本書では、マツタケを通じて、標準化の危うさと、自己完結し得ない絡まり合う生命のすがたが描き出される。

・日本の里山研究が明らかにしたことは、人為的撹乱が少なすぎることがマツタケ山にとっての脅威であるということだ。見向きもされなくなった里山では、日陰に埋没した松が消滅し、まつたけが失われている。

・対照的に、米国では、マツタケ山の脅威は、過多な人為的撹乱であると考えられている。向こうみずな収奪が種を絶滅に追いやっているというのである。

・マツタケは決して自己完結的ではありえず、植物、斜面、土壌、光、バクテリアなど、常に関係性、つまり場に特定される

近現代の進歩社会は「わたしがわたしで自己完結している」という近代的な個の概念を強化させ続けることで成り立ってきたとも言える。

・学者たちにとっての生存とは、種や個体群、生物、遺伝子であれなんであれー人間でも人間以外でもーの利益を最大化することである。

・20世紀を支配した科学の双璧、新古典派経済学(=近代経済のベース)と集団遺伝学(=進化論と遺伝学を統合した「統合説」の形勢を促した)は…それぞれの革新には、自己完結型の個が存在していて、繁殖であれ富であれ、自らの利益を最大化しようとして躍起になっている。

・リチャードドーキンズの「利己的な遺伝子」は。生命を大きく捉える多くのスケールにおいても有効である。つまり、遺伝子の、自分自身の利益を追求する能力が、進化を促すのである。

自己完結を想定することによって、新たな知識を爆発的に獲得することができた。自己完結とそれゆえに個の自己利益を通じて施工することによって、(どのようなスケールであっても)汚染(集まりが部分の総和以上になること)を無視することが可能となる。つまり、出合いによって生じる変容を無視することができるのだ。利益を最大化するために出会いは利用される。しかし、それでも変わらずにいることができる。そうした変化しない個を追うために気づきは不要である。

・分析は全て「標準的」な個を単位として行うことができる。論理だけに従って知識を体系化することも可能である.. 新古典派経済学と集団遺伝学は、こうした単純化によってたくさんの成果を生むことができたため、影響力を持った。

・しかも、もともとの前提が明らかに間違っていることが、だんだんと忘れられてしまっている。かくして、経済学と生態学はそれぞれが「進歩とは拡大なり」という定式を提示する場と化してしまう
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私たちは自己完結を想定することによって、新たな知識を爆発的に獲得したり、標準的な個を単位とした知的体系(新古典派経済学と集団遺伝学)が影響力を持ち、進歩=拡大であるという定式を強化されていった、と。「自己完結」という間違った前提のまま、自己利益の最大化を通じて汚染は無視され、変容をもたらすような出会いの可能性が皆無になってしまったというのである。

しかし著者は「不安定であることは、私たちが他者に対して脆弱であることを確認できる状態」であり、「もし、生存が常に他者を巻き込むものだとしたら、生存は必然的に自己と他者が返答する不確定性、それ次第」なのではないかと主張する。

だからこそ、絶え間ない個の拡張と支配の戦略だけに着目するのではなく、むしろ、汚染を通して発展する歴史を探究していかねばならない、と。

・種内・種間の協働を通して、私たちは変化する。地球上の生命にとって重要なことは、これらの変容の中で生じているのであり、自己完結したこの意思決定の樹状図の中ではない。

・協働は差異をまたぐ作業である。とはいえ、自己完結的な個の利益を最大化する進化の結果として、多様性が育まれてきたのではない。

私たち「自身」の進化は、出会いの歴史によって、すでに染められている。新たな協働に着手する以前から、すでに他者と関わり合っている。

・さらに悪いことには、人類にとって最悪の事態をもたらすようなことにも、私たちは加担してきている。協働をもたらすような多様性は、絶滅や帝国主義、それ以外の全ての歴史から創発する。汚染が多様性を作り出すのだ。

・この気づきは、エスニシティや種などの名称について考えを巡らす作業にも変化をもたらす。もしカテゴリーが不安定であるならば、カテゴリーも出会いの中から創発することこそが注視されなければならない。

山中湖にて。森の中にいると個と個、生と死、生命と非生命の境界線はずっとあいまいに溶けていく

オートポイエーシスからシンビオポイエーシスへ 

Tsingの問いかけは、私たちの生命世界の認識を根底から揺さぶる。


・多くの科学者がおそらく生命を種単位における生殖の問題として捉えてきたからでもある。この世界観によれば最も重要な種間相互作用は捕食者ー非捕食者なのであって、その相互作用は互いに殺し合うことを意味している

・共生関係は、興味深い事例とはいえ、生命を理解するために不可欠なものとはされなかった。生命は、それぞれの種の自己複製から発生し、それぞれが独自の進化と環境変化という試練にたちむかってきた。どの種も自身の存在のために別の種を必要としなかった。生物は自己完結していた。このような自己創造のマーチングバンドが、地下世界の物語を封印した

自己創造のマーチングバンドが、地下世界の物語を封印してきた。
なるほど。デイビッド・モンゴメリーの土と内臓の「The hidden half of nature」を思い出す。

「…自然は関係性を選択しているのであって、個別種やゲノムを選択しているのではないのかもしれない」

と言ったのは、生物学者スコット・ギルバードだが、本書でも彼らのシンビオポイエーシス(ホロビオントの共発生)にも触れられている。これは、それ以前の生命研究における定説「オートポイエーシス(内在的自己組織システム)」を通じた自己形成とまさに対照的である。

汚染を通じて絡まり合う複合種の世界に放り込まれる時、僕らは全く新たな生き物に出会い続けるのかもしれない。
当たり前としてきたあらゆる常識を根本的に更新することが求められる。それには当然、時間もかかるだろう。これまでのスケーラブルな社会がしてきたように、身体実感のないまま観念の世界でまわっていくような話ではないだろう。じっくり向き合い、じわじわと時間をかけて世界から程よく退いていくことが大事なのではないかと思う。

マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅

そして、こうした絶え間ない変化と生成の動的な営みとして生命を捉える態度は、マルチスピーシーズ人類学が仏教哲学と交差する結び目の一つだ。あらゆるものがつながりあいの中で、生まれては消えていく水泡のように、瞬間瞬間に同時に想起していく縁起や刹那の論理は、このメカニズムをほどく手がかりになるのではないだろうか。

このあたりは、奥野・中上の「マルチスピーシーズ仏教論序説」にも詳しい。

・自己の非存在性を説く仏教の観点から見れば、マルチスピーシーズ民族誌は人類学が長らく無意識のうちに想定していた、固有性・単一性・実体性・普遍性を持った人間的自己を、複数種の絡まりあいの中へと投げ入れて、瞬間瞬間に生成する、個体としての本性を持たない自己のイメージを再提起したかっのではなかったか

・その意味で、複数種の絡まり合いとは、相依相関する「縁起」でもある。

人類学が長らく無意識のうちに想定していた、固有性・単一性・実体性・普遍性を持った人間的自己を、複数種の絡まりあいの中へと投げ入れて、瞬間瞬間に生成する、個体としての本性を持たない自己のイメージの再提起。

それは個別の主体が相互作用しあって、染まり合う絡まり合うというよりもむしろ、その絡まり合いの中でそれぞれが生成されていくというものなのではないかと思う。

そういう意味では、マルチスピーシーズ・ワールドを説明するには、相依相待の「縁起の論理(=依って)」だけでなく、空や無を根拠とする「故の論理(=由って)」が必要となるのではないかとも思ったりするが、それはさておき、

近現代産業社会が抱える様々な分断の根っこにある「世界や他種から切り離された普遍・単一的な人間としての自己」という概念を、少なくとも相対化させるところにマルチスピーシーズ民族誌の大きな意義があると思うし、そうでない自己があり得ることに「気付く術」が今の僕たちには必要なのだと思う。ポストヒューマニティ版マトリックスとでもいえるかもしれない。

今回はここまで。
次はようやく「スケーラビリティ」と「潜在的コモンズ」の話を。

【まつたけ雑記:マツタケ 不確定な時代を生きる術(Anna Tsing, 赤嶺淳)】
マツタケその1:生命と経済の絡まり合い、進歩を前提としない資本主義、マルチスピーシーズによる世界協働構築
マツタケその2:汚染という可能性、自己完結しない脆弱な個、マルチスピーシーズ人類学と仏教哲学の邂逅
マツタケその3:スケーラビリティ、撹乱化のビジネス、潜在的コモンズとLife-affirming(マツタケ 不確定な時代を生きる術 / Anna Ting, 赤嶺淳)