在る(Being)から生成へ(Becoming)〜新たな生命科学と利他、協創(亜種の起源 / 桜田一洋)〜

理化学研究所・桜田一洋さんの「亜種の起源〜苦しみは波のように〜」、素晴らしい本だった。

大まかな内容としては、生命進化の本質をダーウィンのいう「競争」ではなく、ウォレスのいう「協創」や「相互扶助」と捉えた上で、

要素分解と因果関係の解明から生命を機械的に捉えるメカニズムの生命科学(標準化の科学)に対して、自己組織化や同期・非同期を繰り返すことで動的に変化し続ける「オープンシステムサイエンス」としての新たな生命科学(個性の科学)の在り方を提示している本

で、数あるダーウィニズム批判の中でもとても納得感があると言うか、多様で常に移りゆく存在である生命を捉えようする視点や見据える未来の方向性にとても共感できるし面白い。

のだけど、この本の真骨頂は、そうした新たな生命科学への提示にとどまらず、複雑系の視点あるいは著者自身の生のリアリティからみた、人の本質的な在り方や、他者との関係性、社会への素晴らしい洞察にあると思う。特に、「感じる」様式や生そのものの喜び、協創の世界認識からみた利他性や寛容に関する社会提言はとても響くものがあった。

福岡生命科学や野中の直感経営、南方曼荼羅や岡潔の情緒、ナウシカ、センスオブワンダー、Ecological Memesでも議論しているひらかれた複数性への自己認識の拡張(「存在から生成へ」)などが次々と想起され、つながっていくような体験。

「考える」と「感じる」を一体化させた新たな知のパラダイム

第三章「隔離した近代科学」以降では、

「ものを中心とした科学が万能だと考えるパラダイムが浸透したのはデカルトとニュートンが築き上げた「科学的」という言葉に世界の人々がみんな騙されてきたからだと指摘した。「科学的」という考え方の誤りは「ものと心」を分けたことにあり、近代科学のパラダイムを打ち破るには「ものと心」を一体化した新たなパラダイムが必要である」

といったソニー創業者井深大の言葉などにも触れながら、「考えること」と「感じること」という人間の思考の本質に迫る。

「考える」と「感じる」の視点の違い:
・効率や合理性を「考えること」は人工知能に置き換わり始めている。しかし、未来は生身の人間が「感じること」をとおして構築していかなければならない。これからの科学には、「考えること」と「感じること」とを融合させる役割がある

・思考は論理的に「考える」と、直感的に「感じること」から成り立っている。論理的に「考える」とき、人は上空から外部世界を見下ろすようにして説明するのに対し、直感的に「感じる」とき人は当事者視点に立って受容する。

・身体的・社会的・合理的な自己意識は計算処理では生じない。意識とは自発性あるいは世界との協創によって創出される直感的な体験である。赤いリンゴを「見る」から脳の神経活動が生じるのではなく、自発的な神経活動によってリンゴが「発見される」のだ。非平衡と非線形から生じる力によって、オープンシステムは無秩序になろうとする自然の原則に打ち勝ち、自発的にリズムやパターンを自己組織化する

・人間の思考には、「まず直感的に感じ、次に論理的に考える」という思考の順番が存在する。人間には自然や相手から届けられる見えないものの意味を発見し、受け入れる知性がある。それは知性が「考えること」と「感じること」を重ねて思考するからだ。人間が人間であるために、「考える」と「感じる」を一体化させた新たな知のパラダイムが必要である。

人間の本質に迫る生命科学:
機械にあふれ、メカニズムの科学に支配された現代社会では、期せずして多くの人は「考える」ことから思考が求められる。

・しかし、何かに(機械に)なぞらえて思考している限り科学ではない。科学は、自然、生命、人間の本質から思考しなければならない。科学とは、自然の普遍的な法則を使って思考することである。

・自己組織化や非線形振動子の同期は物理や化学の不変法則である。重要なことは、普遍法則によって明らかになったオープンシステムの性質が、メカニズムによって捨象されてきt、直感を通して感じ、発見を通して学ぶことを説明できることだ

・メカニズムの生命科学が「考える」様式から自然を表現してきたのに対して、新しい生命科学は「感じる」様式から自然を表現する★

「感じること」と「考えること」の融合。これは、まさにEcolcogical Memesや「Journey of Regeneration 再生の旅」でやろうとしていることでもある。

感じることや身体感覚をひらいていくことを「思考停止」と誤解している人がいるがそうではない。世界を感受する感覚をひらいていくと考えることが変わるのだ。「考えること」のみが切り離されてしまいやすい現代社会において、このつながりを取り戻すことが決定的に重要だと感じている。

いくら頭でサステイナブルを標榜していたとしても、生命感覚が閉ざされたまま、世界や自然環境を切り離した存在として捉える分断された思考のままで、生態系や自然環境に関わる社会システムを考えても根っこでは近代社会の呪縛と同じことの繰り返してしまうからだ。

「人ば明日どう生きるのか」に寄せた「メタ・メタボリズム宣言」の中で、シネコカルチャー(協生農法)の船橋さんも同様の鋭い指摘をされている。

…野山などの自然に相対する感覚でメタボリズム構築を見たときに感じる違和感 - 表面の滑らかさや空間的構成の多様性の生物らしさに対する、内部メカニズムの冷徹なまでの機械文明的効率への依存性 –
人は明日どう生きるのか 未来像の更新)

つまり、生命の新陳代謝のメカニズムをアナロジーとして構想しながらも、その本質的な知的活動基盤があまりに機械論的なままではあるまいか、と。

ちなみに、本書ではあまり踏み込まれていないが、近代科学が、直感的に感じるよりも、「上空から外部世界を見下ろすようにして論理的に説明する」という考えることに偏重していったことは、西欧の気候風土から生じた文化的背景とも結びついているはずで、このあたりは鈴木秀夫の「森林の思考・砂漠の思考」に詳しい。そしてそれは、南方熊楠が指摘していた第三者的な外部の観察者としての近代西欧自然科学の限界とも重なっている。

個性の科学 〜在る(Being)から成る(Becoming)へ〜

メカニズムの機械論的科学の限界を乗り越える「個性の科学」というのが桜田さんの大きなテーマだが、そのためには機械的に在る(Being)ということではなく、成る(Becoming)という生成の次元をいかにもちこむかが鍵となる。

Becomingの科学
・個性は在るbeingではなく、成るbacomingのだ。状態の推移によって成るが可視化できる。状態が変化するのは、自然や人間から届けられるシグナルを受け入れ新たな自己を創出するからだ★

・メカニズムの生命科学は、細胞や分子などの「要素の機能」を明らかにし、要素と要素の因果関係から「個体の性質」を説明する。これは時間を止めた時に成り立つ真実である。

・これに対して、オープンシステムサイエンスは「個体を構成する要素がそれぞれリズムを自発的に生成し、外部からの制約で要素と要素が同期非同期すを切り替えることで変化する(図の4C)」という前提から、身体で生じる様々なリズムとその動機を計測する。このとき測られるのは、心拍数、心電図、脳は、自律神経、体動、睡眠リズム、血中の分子マーカーなどの経時変化である。

・得られたデータのスペクトル解析を行うと、身体を構成している細胞、組織、臓器などが調和して同期しているのか、それとも同期が崩れて病気に向かっているのかを予測できる

考えることと感じることから人間の思考が成り立っているように、これからの生命科学は「メカニズム」と「オープンサイエンス」を融合することで「個性を反映した」高精度の予測と、条件付きの因果モデルとを組み合わせて問題の発生を事前に予防できるようになる。これを生命科学の新たな融合と称する。

このあたり、オープンシステム、複雑系の視点から生命を常に移りゆく動的なものとして捉える視点は、福岡生命科学ともシンクロする。桜田さんの成る(Becoming)というのは、エントロピー増大という宇宙法則の中で自らが自他の境界線を動的に生成し続けることで自己同一性を保ち続ける生命の根源的な営みを、個体・個性のスケールで迫ろうとしているのではないかと思う。

・全ての生き物は体内時計というリズムをもち地球の時点と同期している

・私たちに向かってやってくる自然の恵みは、リズムによって伝わる。自然との間に弱い相互関係をもち、自分のリズムのを自然のリズムと同期させれば、新たな未来を描く自由が得られる。

・個性には、遺伝情報によって前もって準備された存在beingという側面と、体験を通して生成するbecomingという面がある

・「みたいものを見る」という現代社会の構図を離れ、自然の摂理から考えると、何かを見たり握ったりするのには、まずそこに近づかなければならないことに気づく。何かに近づくには、自発的な無償の行動が必要になる。

・成るとは、自発的に生じる秩序の形成であり、新しい情報を生み出すことだ。したがって、生命現象の予測は、これまで自然科学が扱ってきた再現性のある現象の予測とは異なる。成るというのは、人生という舞台で即興演奏を繰り返し、その中で自分のスタイルを確立し、自然や社会と共に新たな楽曲を創作し、演奏することである

そして、健康を人と人、人と自然、心と身体、身体を構成するシステムが同期していることだと捉え、こうした目にはみえないことを可視化することが新しい生命科学の役割だと桜田さんはいいます。数学者・岡潔は「自然科学は自然の存在を主張することができず、そこには心の働きがある」と述べているが、これは世界そのものを生成的な次元で立ち現れるものとして捉えていくということなのではないでしょうか。このあたりEcological Memesで研究してきたテーマとも重なる。

日本でも少しづつ広がってきたリジェネレーション(僕がリジェネラティブリーダーシップを日本に持ち込んだ2019年にはまだ誰も言ってなくて理解されなかった)も、自然環境の話として語られることが多いのですが、そうではなくて人の世界に閉じてきてしまった産業文明のリズムと、生き物しての個や自然のリズムとの同期・調和、突き詰めると人と環境のあいだの認知と関係性の話に行き着きます。さらにいうと、鍵は単数性のわたし(I)からひらかれた多元的にひらかれた複数性のわたしたち(WE)としての利他性・他者性・あいだの回復と捉えています。

なので、人が世界の課題を全て解決するという脱人間中心的人間中心を繰り返すことよりも、まさしく桜田さんが即興演奏と書いているように、地球という生きたシステムや人ならざるものと即興的なダンスを楽しめる一人ひとりの振る舞いや喜びを取り戻していく仕組みを作ることの方が謙虚で現実的な方向性だと思うのです。実際そうした取り組みも周囲で起こり始めています。

利他、協創、不寛容に対する終わりなき寛容

近代科学の機械論的な見方や資本主義的に作りだされた欲望を増幅する仕組みからどうしたら抜け出ることができるのだろうか。桜田さんの主張する新たな生命像と生命科学の鍵を握るのは「協創から世界を理解する」こと。

バタイユの「至高性」なども引用しながら、これまでの道具的な価値に基づいた操作と支配からなる社会を見直し、内在的な価値に基づいた発見と至高性からなる社会への展望が語られます。クライマックス。生きたシステムとしての地球や人ならざるものとのダンス。

・機会になぞらえた幻想が社会に浸透し、あらゆることが市場化してしまった。機会化された「自由」とは自分の欲望を満たすための競争であり、市場は個人の欲望の集まりである。道具的な価値観の中で生きると言うことが、人生を「人の欲望を満たすことで対価を得る労働」と「自己の欲望を満たすための消費」というループに閉じ込めてしまった。このループの中で少数の勝者と多数の敗者が生み出された。★

・人類は長い歴史の中で相手への寛容と自制心を育んできた。それさえも社会は見失っている。不寛容は世界を操作し支配しようとする。寛容が目的化するとパラドクスが生じる。カール・ポパーは寛容な社会を守には不寛容に対して不寛容でなければならない論じたこれは誤りだ。完璧なる寛容が幻想で在るようにゆるぎのない不寛容も存在しない。不寛容は苦しみに他ならないからだ。不寛容に対する終わりなき寛容によってしか不寛容は克服されない。★★

・機械仕掛けの生き方を変えなければ、人間はいずれ監視されるようになり、問題ありとレッテルが張られた人間は社会から排除される。個人情報の集積とAIを用いた解析技術の進展による精緻な監視社会を自分の息子や未来の人類に残したいとは思わない。

・人生を健康に生きるということは、新たな自己の創出を通して自律的に自然や社会と調和することだ。進化を生み出したのは「協創」によって成ることを実現できた生き物である

・機械になぞらえた競争原理の「終わりなき我欲に従って、他者との戦いを生きろ」とい勧誘を断ち切るには、「生を愛する情熱に従って終わりなき自己創出と世界との協創を生きる」ことに気がつかねければならない。★★

・生涯かけて学ぶべきなのは、心の底から生じる無償の力によって生きることである★★

・人への怒りは、相手を打ち負かすのではなく、相手を許すことでしか終止符は打てない。加害者に自分と同じものが流れているという直感からしか、罪は許すことができない。★★

生命進化の本質をダーウィンのいう「競争」ではなく、ウォレスのいう「協創」や「相互扶助」として認識し直すことが、利他性や社会的振る舞いとつながっていくという視点、マイケル・ポーランがwiredのインタビューでも的確に語っています。

それにしても、

「不寛容に対する終わりなき寛容によってしか不寛容は克服されない」

「機械になぞらえた競争原理の「終わりなき我欲に従って、他者との戦いを生きろ」とい勧誘を断ち切るには、「生を愛する情熱に従って終わりなき自己創出と世界との協創を生きる」ことに気がつかねければならない」

「多様な生物が世界と調和しているのは自然淘汰によって不要な生物が排除されてきからではない。あらゆる生き物が独自のスタイルに基づいて世界と自律的に協創しているからだ。自分と異なる相手と共に生きる社会を人間が作れないはずがない

「もうこれ以上、弱肉強食の進化論と機会になぞらえた生命像によって人間が傷つく必要はない」

「人への怒りは、相手を打ち負かすのではなく、相手を許すことでしか終止符は打てない。加害者に自分と同じものが流れているという直感からしか、罪は許すことができない」

このあたり、桜田さんの想いや野心的なテーマの背後にある課題意識、社会へのメッセージに心を打たれます。書き始められたのは14年も前のことだと書かれていますが、コロナを経て「生命とは何か」「自然とは何か」「人とは何か」というそもそもの問い直しがかつてなく必要とされているこの時期に産み落とされたというのも何かすごく自然な流れだったのかもしれません。岡潔などもそうですが、科学の領域・立場からこういうメッセージを届けてくださる方がいることは本当に有り難いことです。

最後に、この本を読みながら思い出したミスチルの「タガタメ」の歌詞を。

「こどもたちが被害者でも加害者でもなく、このまちで暮らしていくために、まず何ができるだろう」