“場をデザインする”とは何か 〜制約と解放のバランス〜

前回のブログに安斎さんのBa Design Workshopのこと、そして“場のデザイン”、“空間のデザイン”に関するもやもや感のことを書きましたので、今回はその後の考察です。また、昨日デザイン思考WSを開催してみて感じたことも少々。

場のデザインとは何か?

場のデザインするって何ぞやという話です。

まだまだもやもやしていますが、 場のデザインとは“制約と解放のバランスをそこに漂うすべての要素で表現する”こと なのではないかと思っています。

前回のワークショップでカフェの本質を捉えていく段階で「振る舞いの自由度」というキーワードがありました。くだいて言うと、人々の共通意識としてそこの場をどのように認識しているか、ということです。そしてこの認識に乖離があると不快感が生じる可能性があります。図書館で大声で話している人や電車の中でお化粧をしている人を見ると不快に思う人がいるのは「振る舞いの自由度」が共有されてないからだ、ということです。

さて、“場”というのは人々を取り巻く規制(つまりは自由度)を切り替えることのできる、あるいは解放することのできる決定的なファクターとなります。会議室に入った瞬間に大笑いはしてられなくなりますし、自分の部屋に戻った瞬間に着ている服をすべて脱ぎ払うことができますね。

ですから、“場をデザインする”というのは“規制と解放のバランス”を目的意識にあわせて設計することなのではないでしょうか。もっと言えばそれまで取り巻いていた規制を一度すべて解き放って、再びその場の自由度を示してあげる、というイメージです。

 

言葉をこえて、場を表現する

で、じゃあどうやって示すのかというと、“そこに漂うすべての要素で表現する”わけです。この前ハンモックカフェに行きましたが、カフェにいってハンモックがあったら、「あっここはリラックスしてゆるい感じでいいんだ」というメッセージを感じますね。

すべての要素といったのは、言葉での表現の範疇を越えてという意味です。その空間にあるものの色や配置、素材感から照明加減や天井の高さ、床のきしみ具合や流れている音楽、日光の差し込み方、あるいは外界との接し方(別に屋内である必要はない)やその場にいる人、入ってくる人の雰囲気までありとあらゆる材料がその場を彩ります。その絶妙なハーモニーは少なくとも僕が言葉で表現できる範疇はとうに越えているし、それは再現しようのないある種芸術的なものなのだと思います。

(多くの人が口をそろえて言うことですが)僕は初めてHub Somaに足を踏み入れた時、他の空間には明らかにない“何か”を感じました。あっこんなのありなんだ、と背筋がそわそわしたのを覚えています。案外入った瞬間に伝わるものです。

このように書くとじゃあ“場のデザイン”ってとても感覚的でartisticなタレントがないとできないのね、と思われるかもしれませんがそうではありません。受信側が印象や感覚で場を享受するのとは対照的に、場を生み出していく側はそこに足を踏み入れた人に目標の体験をしてもらえるようにものすごく緻密な論理設計が必要となるのだと思います。

簡単に言えば、壁にかけてある絵画ひとつとってもその裏側には、なぜその絵画がその場所に必要で、どうして別の絵画じゃだめで、額縁の色はその色で、どうしてその角度から照明するのか、そしてそこにいる人にどういう体験をしてほしいのか、という論理が構築されていなければならないということです。

自転車置き場のデザイン

 

僕はこの分野を専攻しているわけではないので学問的な詳細は分かりかねますが、でもこれって例えばプロダクトデザインでも同じことですよね。顧客に目標の体験をしてもらうためにかなりの論理的なプロセスを経て緻密にデザインしたプロダクト、そのメッセージを受け取る側の顧客の判断基準は直感的な場合が多いですよね。UI/UXのデザインでもそうですが、いちいちなんでこういう風なデザインになっているのか考えるユーザーなんていません。もっと言えば優れたデザインほど何も考えずに済むわけです。

 

“場”と“空間”は同じか

さて、こうして緻密な論理設計をもとに制約と解放のバランスを示していくのが場のデザインだと捉えているのですが、もう一つ命題があります。

それは“場のデザイン”と“空間のデザイン”は同義か、ということです。これは完全に僕の個人的な感覚によりますしまだあまり整理できていないので、読み流して頂ければいいのですが、“場”は瞬間の概念で“空間”は連続の概念なのではないかと考えています。

”場のデザイン”とはその瞬間の体験を設計することですが一方で、空間は常に時間軸と共に変化し続けていて、“空間のデザイン”とはそれまでの蓄積やこれからの時間も含めた体験設計であるということです。“空間のデザイン”は”場のデザイン”も含んでいるということになりますが、“場所”という概念から超越しています(つまり時間軸を含む体験設計ということ。規制が連続的に体験を設計して行きます)。うーん難しいですね。ここまで書いておいて、場のデザインは”瞬間の設計”以上の何かであることは感覚的に革新しているのです。

 

自分でも何を言っているのか掴めなくなってきたので、というかそもそもこの二つを分ける意義があるのかもよくわからなくなってきたので、この辺にしておきます。興味のある方がいましたらみなさんの考え是非コメント等で共有して頂けたらと思います。

ということで本題に戻って、場のデザインとは“制約と解放のバランスをそこに漂うすべての要素で表現する”ということなのではないかと(今のところ)思っています。もしかしたら、なんか実は当たり前のこと言ってない?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかしこの定義はどんな制約と自由度をもってどのような体験を提供したいかという切り口で場のデザインを考えることを規制する、という点で価値があるのではないかと思います。例えば最近Future Center や Creative Spaceというのがありますね。普通のオフィスではなかなかイノベーティブなアイデアが生まれてこないので、Creativityや対話を促進する場があるといいね、という話です。

GWに行われたi-schoolのWSでZibaの濱口さんもおっしゃっていましたが、Creativityというのは別に論理性と相反するのもではなくて実は制約と解放の狭間にあるのではないでしょうか。

制約をすべて取り除いてしまえばいいというわけではないのだと言うことです。濱口さんが書かれていた図をそのまま使わせて頂くと写真のような感じです。これはまさに制約と解放のバランスです。 昨日デザイン思考WSを主催しましたが、デザイン思考もまさに制約と解放の調節であるとも言えます。

 

下の二つの図を照らし合わせてもらえば、Empathizeや Ideateのステップで思考回路を拡張し、逆にDefineや Prototypeのステップではキュッと限定されているのがわかると思います。

場をデザインする時にこういった切り口で眺めてみるとまた少し違った味付けができるのではないでしょうか。 あなたならどんな場をデザインしたいですか?