現実のしっぽをつかまえる。(文化とはなんだろうか/鶴見俊輔)

現実のしっぽをつかまえる。(文化とはなんだろうか/鶴見俊輔)

文壇カフェで偶然見つけた鶴見俊輔さんの座談集「文化とはなんだろうか」、余韻が凄い。

30年、40年以上前に行われているとは思えないほど鮮やかな対談。
(ゴジラと君の名は(1953)が語られるくだりも現代を錯覚させられたけど、これからはテレビが400万台を超えてマス・コミュニケーションの時代になるみたいなセリフで、あ、そうかと気づく)

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「大衆芸術と高級芸術、こういう分かれかたが不健全だと思うんだ。この間をどうつなぐかというのが問題だ。わたしは”限界芸術”というふうな第三の種目を出したい。

(中略)

誰でもの日常のなかに入っている芸術なんだ。そして、そこから大衆の自主性の回復という問題につながっていけるだろうと思うんだ」
(文化と大衆のこころ/長谷川幸延 福田定食 1956)

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「現実のしっぽを捕まえる思想のエネルギー源としての映画」という表現にやたら感動した。思想家というのはすごい生業だなぁ。

写真は、太宰治の長編小説「正義と微笑」に出てくるおしること寺田寅彦の「コーヒー哲学序説」をもとに再現した牛乳コーヒー(らしい)。

 

 

2017年の振り返りにつき追記(2017/12/30)※

この本を読んで強く感じたのは、そうか、文化には、政治、経済には叶わない、人々(大衆)が自分ごと化していける柔らかさがあるんだ、ということ。

特に面白かったのは、児童文学作家の今江祥智さん、上野瞭さんと1972年に行われた、センスとナンセンスに関する対談。

やっぱり鶴見さんの言葉がものすごくて、ナンセンスを「存在の鼓動に対する新しい感触」だなんていってしまうわけです。

「存在は究極のところでナンセンスにぶつかるわけです。なのに、もし子供にセンスから教えると、ある時にセンスの不合理生を考えたらもう、全然やる気を無くしちゃうわけですよ。始めにナンセンスに浸ると、センスそのものはその後、生きる技術として部分的な正当性を与えるとしても、全体はナンセンスの中にあるものとして安住できる」

なお、軽井沢の絵本の森美術館は、この本を読んだ後にいくと味わいが一気に深まるのでオススメです。

※追記終わり※

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(文化と大衆のこころ/長谷川幸延 福田定食 1956)
・大衆芸術と高級芸術、こういう分かれかたが不健全だと思うんだ。この間をどうつなぐかというのが問題だ。わたしは”限界芸術”というふうな第三の種目を出したい。マージナルアート、芸術としての水準をほとんど割っている。そこからは私たちの日常生活そのものになってくる。

・赤ん坊と遊んでいる時母親は芸術家なんだ。酔っ払っている時は皆漫才みたいなことをいう。そのとき人は芸術家なんだ。そのかぎりでどの人も限界芸術と接触点を持っている。どの人も芸術に対して能動的な役割を果たす場がある。誰でもの日常のなかに入っている芸術なんだ。そして、そこから大衆の自主性の回復という問題につながっていけるだろうと思うんだ

(漫画と記号/手塚治虫 中山茂 1985)
・漫画の状況というものは、その国の発展とそれに伴う大衆のビジョンというか理想像とひどく関わっていて、言い換えれば大衆パワーの尺度のパロメーターなのだ
・漫画の面白いところは、アマチュアリズムのようなものが果たしてきた役割、つまり、他人に対する評価の寛容さが大衆文化の中にあるそれ。
・つまり、漫画の役割が変わった。書籍としての漫画はある程度のプロフェッショナルな技術を必要とするんですが、それと関係なくアマチュアも含めて漫画のアイデンティティというのは全く別のところで育ってきた。漫画の本質そのものは印刷物の漫画とは全然別の方向を向いている
・実は漫画は、新たなパターンを創り出しているように思えて、原始時代からのイメージの記号化のメモリーの掘り起こしなのではないか。

 

(映画の向こうへ)
・思想のエネルギー源としての映画。本当の思想家というのは日常生活の状況そのものからエネルギーを汲み取ってゆくべくはずのものだが、一番難しく問題を捕まえられない時が多い。

・本来は現実のしっぽというのはなかなか捕まえにくいが、映画は具体的な形で一変中間的に成立してくれていて捕まえやすくなっている

・帝国主義の戦争はいかんとか言っているより、放射能を帯びた怪獣が出てきてそういうものでみんなやっつけられることを見たりした方がピンときてわかるわけだ。


(ナンセンスとセンス/今江祥智 上野瞭 1972)
・ルイスキャロルの「不思議の国のアリス」などの児童文学は礼儀とか言葉遣いとかについてやかましい大人や社会のルールに縛られてしまいやすい子供たちに対する非常に重要なナンセンスへの導きだったのではないか

・「アリス」とリアの「ナンセンスの本」がナンセンスの源流。キリスト教の原則である相手を常に人格として扱うっていうことになると非常に身動きが取れなくて困る。礼儀とか言葉遣いとかについてやかましい社会に縛られている子供たちに対しては大変なアピールだった

・身体の自由。アリスの中に小さく縮こまるところの身体の拘束性。からだを自由に動かすということは、ほとんど、子供にとっては全身が性的な感覚の解放に近い。 縛られた人間、つまり大人や社会のルールに縛られている人間、子供を解き放つ、その中で解放される。

・センスは究極のところでナンセンスにぶつかるわけです。つまり、存在そのものは無意味なものなので、海辺に波が打ち寄せてくる、引いてまた打ち寄せてくる、その状態なんだ存在というのは。その状態を、意味のなさにおいて受け入れる。そして、その存在の感触を楽しむ。それを子供の時に教えてやると、これは楽しいじゃないかなんてことを存在の感触の楽しさというものを子供が知る手立てになる。そして、そのことによって生もまた耐えうるものになるってことがあるじゃないですか。

・もし子供にセンスから教えると、ある時にセンスの不合理生を考えたらもう、全然やる気を無くしちゃうわけですよ。始めにナンセンスに浸ると、センスそのものはその後、生きる技術ソテひ部分的な正当性を与えるとしても、全体はナンセンスの中にあるものとして安住できる。

・センスを頑なにこれだけが世界だと考えていると、視点が固定してくるでしょ。目隠しされた馬みたいに。それに対する一種の揺す振りをナンセンスは作っていると思うんです。そいういうところで、鏡の国のアリスに出てくる「ハンプティダンプティの”誕生しない日々のおくりもの”」や「ティードルディーとティードルダムの夕食まで喧嘩しなけりゃならないというもののバカらしさ」といったナンセンスというのは、センスの過同調に対するブレーキをつくっている気がする

・枕詞っていうのは初めがセンスがあったわけですよね。それがだんだんと形式的に使いこなす中でナンセンスに移行していく。つまり、中身をぽこっと落としちゃってからのバケツとしてやりとりするようになるんですよ。数学的になってくる。だから、それは大地に密着した生命のリズムや暮らしの共同体のリズムになっていくんだけれど、リズムがリズムとして感じられるようになってくるとそれはナンセンスになっていく。そうした存在の鼓動みたいなものを受け入れるっていうのがナンセンスの解釈なんじゃないですか。存在に対する新しい感触。意味はないけれども全く血潮が流れていくのをただ感じていく感じ。

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