生命は時間を先回りする?型破りな生命科学と西田哲学の交差点(福岡伸一、西田哲学を読む-生命をめぐる思索の旅-)

福岡伸一さんといえば、分解(壊す)と合成(つくる)の同時性に着目しながら、動的平衡という生命の本質的なメカニズムに迫り、旋風を起こしつつある気鋭の生物学者だ。名著「生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)」を読んだことがある方も多いかもしれない。

本書は、福岡伸一さんが、西田哲学の継承者・池田善昭さんを指南役に、西田哲学と福岡生命科学の重なりに迫っていく。難解な西田哲学の森に、福岡生命科学と照らし合わせながら踏み込んでいく凄まじい本だった。

備忘録的に残しておこうと書き始めたら、かなり長くなってしまったので目次を。

・生命は動的な流れの中にある
・主観に囚われず自然のありのままに感じ取るピュシスの世界に還る
・いのちは「あいだ」にある – あいだの思考
・生命の本質は、つくる仕組みよりも壊す仕組みにある
・主観と客観がわかれる手前のところで哲学する(主客未分)
・生命は時間を先回りしている – 未来と過去が現在に入り込む「永遠の儚さ」とは?(行為的直観)
・環境と樹木は包みつつ包まれる – 「逆限定」の世界
・時間は生命活動そのものによって生み出されている?
・まとめ

生命は動的な流れの中にある

まずはプロローグから。
福岡さんが提唱する「動的平衡」と、それがどうして西田哲学と出会ったのかについて。


・「生命とは、要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである」というシンプルな、しかし転換的な生命感を私たちが本当の意味で発見したのはそれほど昔のことではない。

・このマクロな現象をミクロな解像力を持って証明したのは、ルドルフ・シェーンハイマーという人物であり、それがなされたのは1930年台後半。

・シェーンハイマーの死後三年経って、1944年、シュレーディンガーは「生命とは何か」の中で、「秩序は守られるために耐えず壊されなければならない」と記し、全ての物理現象に押し寄せてくるエントロピー(乱雑さ)増大の法則に抗って、秩序を維持しうることが生命の特質であることを指摘した。しかしその特質を実現する生命固有のメカニズムを示すことはできなかった。

・エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は参加され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる

エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり、流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。

・私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態という概念をさらに拡張して動的平衡という言葉を導入し、「生命とは動的平衡にある流れである」と再定義したい。

・科学はいつでもすでに人間が感得していたことを解像度をあげて言い直す作業に過ぎない。動的平衡は、万物は流れる(パンタレイ)というヘラクレイトスの言葉の中にすでにあり、鴨長明の「方丈記」の冒頭でも見事に叙述されているとおりだ。

福岡さんは、細胞からできているとか、呼吸をしているとか、DNAがあるとか、そういう属性を並べて定義す文節的なアプローチが、生命とは何かと言う命題の出口になりうるのかと従来の生物学に疑問を投げかけ、そうではなく生命の本性そのものを解き明かそうとするのが福岡さんの大前提のスタンスであり、ビックピクチャーだ。

そうして行き着いた動的平衡の概念は、大まかにいえば、「生命は、逃れることのできないエントロピー増大の法則に対して、分解(壊す)と合成(つくる)を同時に行い続けることで、エントロピーが増大(乱雑さの蓄積される)するよりも早く負のエントロピー(秩序)を取り込み、動的な平衡状態を保っている」というものだ。(詳細は後述)


・このような生命の定義 ー 動的平衡の生命論 ー が西田幾多郎のめざしていた生命に対する考え方と極めて密接な相同性を持つこと、あるいは通底しているものがあるのを指摘してくださったのが池田先生だった

・主体と環境との矛盾的自己同一的に、時間と空間との矛盾的自己同一的に、全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する(西田幾多郎「生命」)

・読めば読むほど、動的平衡によって生命を実存として定義しなおそうという私の試みの基本的なエッセンスは、すでに西田哲学において実現されていたということに気が付く。

・西田先生が言っている「多と一」という概念・表現についても、その洞察は、私が生命を定義しようとしている動的平衡のコンセプトと重なるところがある。動的平衡とは、生物が、合成と分解を繰り返しつつ、エントロピーを捨てながら時間に沿ってある種のサイクルを回す、生命(体)が時間の中を航行していく姿を表現した概念です。

そうした福岡さんの生命のメカニズム(=動的平衡の生命論)が、西田哲学における生命観や「絶対矛盾的自己同一」の概念とシンクロしているのではないかというところが本書の対談のスタート地点のようだ。

さて、どういうことだろうか。本書では、西田哲学の継承者である池田先生を指南役にしながら、読者は福岡さんと共に、西田哲学の森に足を踏み入れていくことになる。

なお、福岡の生命科学を通すことで西田哲学が理解でき、西田哲学によって「動的平衡」がより深くわかるという一挙両得な感じが本書の面白みなわけあるが、西田哲学が難解なことには変わりない笑。

主観に囚われず自然のありのままに感じ取るピュシスの世界

西田哲学の森は、いわゆる現代社会で我々が当たり前としている論理(ロゴス)に縛られているとなかなか前に進めない。本書では、①ピュシス、②包み包まれる(逆限定)、③一と多(時間と空間)、④先回り、⑤時間という5つのステップを乗り越えながらその真髄に迫っていく。

まずは第一のステップ、ピュシスについて。

ピュシス対ロゴス:
・古代ギリシアで紀元前6C〜5Cごとに、ヘラクレスなどは「相反するものの(Aに対する非A)の中に美しい調和がある」ということを唱えた。これは人間のロゴス(logos, 理性の意)では理解ができなくて、ヘラクレイトスの立場は「ピュシス(Physis, 自然の意)」というイオニアの自然哲学の立場にあります。

・ヘラクレイトスによれば「ピュシス(自然)は隠れることを好む」とされているのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れ無さゆえにすべてが理解し尽くせるという立場です。ピュシス的立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模倣をのみ探究するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテス・プラトンの時代です。

・20世紀に活躍した哲学者マルティン・ハイデガーはこのことを鋭く指摘しています。つまり、「真の存在はピュシスの中にあった」と。それを然るべく突き詰めていくのが本来の哲学であったはずなのに、実はそれは理解できないものとして葬り去られた。プラトン以降の哲学では、理性やロゴスにかなった、われわれに理解できるもののみを人間は考えていくべきだ、という立場がずっと主流になってきたというのです。

・ソクラテス・プラトン以降、二千数百年にわたって、人間の思考は、本当のリアルな自然の生の世界というものに触れるのではなくて、人間の主観性の中で構成され、つくられてっきたものを相手にしてきたに過ぎないともいえる。西田が目指した方向とは異なる考え方(主観性の原理)に則って、これまでの哲学や科学は営まれてきたということを、西田を学ぶときに気付いていなければならないことなのですが、意外なことにこのことには哲学者でされーハイデガーは例外としてーほとんど気付いていないんです。

・その一番良い例が西田の「自覚」という言葉です。「自覚」と聞くと、多くの人は人間の「自己意識」のように受け止めてしまうんですが、そうするとこれは完全に主観性に基づくものになってしまいます。西田が言っている自覚というのは、むしろピュシスに気づくことなんです。「純粋経験」というのも、むしろピュシスの世界に入ろうとすることです。

人間の理性に合致するもの(理解できること)を扱い、人間の主観性の中で構成されてきたロゴスの立場に対し、自然本来の姿をありのままに触れようとする立場をピュシスといい、どうやら西田哲学はプラトン以後の哲学で失われてしまったピュシスの世界を取り戻そうとした哲学である、ということが書かれています。(なお、池田先生は、だが残念なことに、西田自身がそのことに気ついていない節がある、とも書いています)

これは、福岡さんが、生命を分節的に理解する(ロゴス)のではなく、生命のあり方そのものを捉えようとしていたことと似ています。


・傳田光洋さん(資生堂の皮膚の研究者)の高校時代に生物の面白い先生がいて、面白い試験問題があったそうです。「生物というのはいろいろなものを食べて排泄している。・・・僕らの郷土の琵琶湖にもいろんなものが入ってきて、いろんなものが出ていくという風に見えます。琵琶湖は、生命でしょうか?」

・ロゴスで琵琶湖を解こうとすると、滋賀県の真ん中にある日本最大の湖で、面積は・・・というのは言えるんですけども、琵琶湖(の存在)とは何かと問われたら、誰もするには答えられないのです。というのは、絶え間なく水がそこに流れ込んで、そこから流れ出ている「状態」が琵琶湖ですから。

・その水の入れ物というか窪みのことを琵琶湖というのかといえば、水を抜いた後のくぼ地は琵琶湖ではないし、その人々が見ている、たくさんの川が流れ込んで、そして大阪湾に流れ出ている、琵琶湖というのは一体何かといえば、そこには実体がないわけです。だから琵琶湖をロゴス的に見ようとすると、Wikipediaに乗っているような属性を並べることになる。みんなそれで理解したつもりになっている。

・でもピュシスとして琵琶湖を見ようとすると、それはもう、二度と同じ水が流れてはこないんだけれども、みんながそこにいつも琵琶湖があると思っている状態がある。そこにさまざまなものが入って、ある状態が維持されて、いろいろなものがそこから外に流れ出ていくわけですかが、私の「動的平衡が生命である」という定義からすれば、琵琶湖は生きているという風に表現することは荒唐無稽のことではない。

・そうしたピュシスとしての実在を捉えるというのが、西田先生が目指していたビジョンだったということなのではないか。

・ここまでをまとめると、ヘラクレイトスが「万物は流転する」とか「相反するところに最も美しい調和がある」と言ったように、自然本来の在り方を捉えようとする立場がある(ピュシス)。一方、それを忘れて、いわゆる「存在者」というものだけでモノを語ろうとする立場がある(ロゴス)。プラトン以降の哲学はロゴスの立場にもとづうk者で、それが続いてきたことに対する一種のアンチテーゼとして西田は「ピュシスの世界に還れ」という旗印をいわば行間に掲げて、独自の考えを深めていったということです。

つまり、生命を文節的な属性ではなく、ピュシス的な立場から「動的な状態」として捉えようとするわけですが、西田は西洋哲学を否定したわけではなくて、西洋哲学の以前にあったピュシスの立場をある種回復させるルネサンス運動のようなものを企図していたわけですね。

西田が一体なんのために「純粋経験」だとか「自覚」や「場所」「無」といった難しい述語を使って西洋哲学を乗り越えようとしていたかをピュシスとロゴスの視点から理解しておくことは、西田哲学を読み解いていく上で非常に重要なポイントになりそうです。

いのちは「あいだ」にある – あいだの思考

さらに、池田先生は、「福岡先生と西田の場合に共通するものは、二人のものの考え方が「あいだ」に立っていることだ」といいます。どういうことでしょうか。


存在と無の「あいだ」:
西田の「場所」というのは、面白いことに「あいだ」を意味する概念なんです。福岡さんが細胞膜を「あいだ」と呼んだでしょう。膜というのは細胞の外側と内側のあいだなんですよね。別に実在する線や輪郭ではない、内側でもなく、外側でもない、その「あいだ」。これを西田は「絶対矛盾」と言ったわけです。西田の場合は存在と無の「あいだ」のことを指します。

・従来の哲学では、「存在」と「無」しか考えてこなかった。存在と無の「あいだ」に問題があるとは誰も気がつかなかった。福岡さんの生命科学で言えば、生命現象は細胞に関係している、と。しかし、細胞の中が問題にされることはあっても、細胞膜を問題にした人はあまりいなかった。

・ーそうなんです。要するに、「あいだ」にいのちがあるんです。あいだで行われるものや情報などのやりとりの中にいのちがあるんです。

あいだにいのちがある。
まさに、福岡さんの動的平衡の本丸に迫ってきました。
西田哲学を通じて、少しづつ紐解かれていきます。

「あいだ」の思考:
・時間と空間といった時に、考えなくてはならないのは「と」ということだと西田の弟子である西谷先生に言われた。

・要するに時間と空間というのは、次々に起こる継起的な秩序(時間)と全然動かない広がりという同時的な秩序(空間)というものが、実はこの世界においては一つになっている。もちろん、これは「絶対矛盾的自己同一」的な事態なんですけれども。その絶対矛盾の自己同一、あるいは「逆対応」といってもいいんですけれどもね、時間は空間に対して逆に対応している、と。

・このことを説明するために、僕は「包む・包まれる」、あるいは「包まれつつ包む」という表現を用います。時間は空間に包まれながら、実は逆に空間を包んでもいる。福岡先生の言う細胞の内部と外部のあいだの膜においても、外部は内部と包みながら、逆に外部は内部の中に包まれている(包まれつつ包む)、というのがすでになされている。

・しかも、膜自身も絶え間なく流動しています。ロゴスというか言葉で表現されると、なんだかかっちりした輪郭線になってしまうし静的なものにみえてしまうのですが、実はむしろ、その流れの中に生命のやりとりというか営みがある。

読んでいて、フランスの印象派画家ポール・セザンヌの「自然に線は存在しない」という素敵な言葉を思い出しました。まさにピュシス。細胞膜という”あいだ”が輪郭線になってしまうように、人が理性的・文節的なロゴスの立場で世界を捉えて線を生み出しているのかもしれません。

「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」「包まれつつ包む」などはあとで出てきますので、今はわからなくても大丈夫です。

さらに、あいだを思考した学者として、「棲み分け理論」の今西や「環世界」のユクスキュルなども登場します。

・今西の生態学も、自然科学の世界では科学的ではないとされ、それほど評価されないものになっているのですが、個人的には好きなんです。

・彼も、自然本来の在り方をなんとか捉えようとして、例えば生物の進化について「生命はかわるべくして変わる」のようにいったわけです。これが、ロゴスの生物学者からは手厳しく批判されるのですが、、今回お話を伺って、これは西田の「〜でなければならない」と同様に自然が本来持っている在り方を語っていたのだ、とはっきりつながった気がしました。

今西の「棲み分け」理論はまさに「あいだ」の理論です。棲み分けというのは、二つの生物種のあいだで起こる一種のせめぎ合い(競争ー協調関係)のことですから。

「棲み分け」というのは、生物が互いに分をわきまえ、退却しあった上で、ぼんやりとした「あいだ」というか、境界線にならない動的な平衡の界面を作っているという考え方なんですけど、近代ダーウィニズムでは、常に競争の結果として起きたことしか、進化のフィルターにかからないはずだと考えられてしまうので、生物同士が勝手に協力しているというような「美しい調和」のようなものは認められないのです。

・今西だけでなく、「環世界」を提唱したユスキュルも、今ではほとんど顧みることはないんですけども、彼もまた生命のあり方を独自の見方でまさにピュシスの方から見ようとした人物として位置付けられると思います。

・自然科学の分野におけるこうした事情を振り返ってみても、ロゴスの力で覆い隠されてしまった自然のあり方というものに気がつかなければいけないという西田の見えざる意図というのは、非常に「古くて新しい」問いかけなんじゃないかなと、一生物学者として思います。

今西は、加茂川のカゲロウの生態から棲み分け理論が生まれたと言われていますが、生物が互いに分をわきまえ、退却しあった上で、ぼんやりとした「あいだ」が立ち現れ、そこで美しい調和や協調が生まれていくというのは、日本の里山理論なんかも近いような気がします。

生命の本質は、つくる仕組みではなく、壊す仕組みにある

・20世紀の科学者たちは細胞の中でDNAやタンパク質やそういったこの何かが作り出される精妙な仕組みの究明に取り組んで成果を出してきたのですけども、細胞の中でものを作る仕組みはたった一通りしかなかった。DNAを作る方法もタンパク質を作る方法も。

・ところが、細胞が細胞の中でものを壊す方法は何十通りも、まだ解明し切れてきないというほどある。とにかく細胞というか命というのは、壊すことに一生懸命なのです。どんな場合でも壊せるようになっている。なぜかというと、壊さないとエントロピーを捨てられないし、壊さないと次が作れないから。だから、壊すことが唯一、生命を前に進める方法なんですよね。だから分解と合成が同時に進行している。

・そういう意味で、「あいだ」を思考すると言う思考の仕方は、従来の西洋科学にも西洋哲学にもなかったんです。西田がはじめてまさに自覚的になされたわけです。西田が取り戻そうとしたものがピュシスであったということとはもっと強調されても良いところですよね。

エントロピー増大という宇宙の掟を前に、生命は堅牢になることを諦め、エントロピーの法則に襲われる前に先回りして自分で自分の細胞を壊すことを選んだ。壊し続けることで、同時に常に新しい細胞が生まれる状況を維持している。

その絶え間ない分解(破壊)と合成(創造)の動的な流れこそが生きているということの本質であり、福岡さんが提唱する動的平衡です。

つくることは見えやすいけれど、その裏では常に壊すことが同時進行で隠れて起こっている。まさに「ピュシス(自然)は隠れることを好む」わけですね。

主観と客観がわかれる手前のところで哲学する(主客未分)

さて、このピュシスの世界に還っていく時に、触れておかなければならないのが、主客未分です。

主客未分と純粋経験:
・従来、真理というものについて述べる時には、「それは客観性のあるものでなければならい」のように、主体に対して客体を尊重するような言い方がなされることが多いわけですけれども、実はそうして得られる客観性そのものが実は主観性の原理に基づくものに過ぎないと言うことに私たちはあらためて注意する必要があります。

・西田は「主客未分」という表現・概念をよく使います。つまり、主観(主体)と客観(客体)というものがわかれる手前のところで哲学することを重視します。そうすることで、ピュシスの実存というものに迫ろうとしたのです。これは、「善の研究」に始まる西田のすべての哲学的著作、哲学論文を通奏低音のように流れている重要な考え方であると言えます。

・ここでは、主客未分というものは、動物の本能的動作にも似た精神状態として説明されています。例として、人が一生懸命に断崖をよじ登ったり、音楽家が引き慣れた曲を演奏したりする状態があげられています。主客未分の状態とは、我を忘れて一生懸命に行為している状態、といっても良いかもしれません。そこに行為のみがある、と言えるような思慮分別がない精神状態と誓いしても差し支えないでしょう。

・思慮分別がないという表現は普通の感覚では浅はかなことを指して使われることが多いですが、西田にとってはむしろ思慮分別こそがピュシスに到達しようとすることを阻むのです。ピュシスの哲学は、思慮分別を働かせないで、自然をありのままに見つめるということとなんですね。

・「純粋経験」というのは、こうした「ピュシスの世界に入ること」であり、主観と客観が分かれる以前のところで成立する世界です。仏教哲学者の鈴木大拙が書いているようにリンゴを理解するには、リンゴを分析的にみていくのではなく、そのままに経験しなけばならない、といったこと同じようなことであるのですね。

ピュシスとは自然本来の姿そのものを捉えようとする立場でした。それは、主観と客観が分かれる以前のところで成立する世界であり、西田哲学でよくでてくる「純粋経験」も同じことを言っていると理解できます。

このあたりは、内田樹さんの言う身体性や感じるということの重要性ともつながってくる気がしますし、宮崎駿さんなどもおっしゃっている「無我の創造」などもまさにピュシスの実存に迫る主客未分の世界ですね。

生命は時間を先回りしている?
– 未来と過去が現在に入り込む「永遠の儚さ」

そして、話は西田の生命観に。
西田は生命というものについて、

「生命は、絶対に相反するものの自己同一として成立するものではなければならない、突起の同時存在の世界の自己限定として成立するものでなくてはならない。・・・時間即空間、空間即時間なる永遠の今の事故限定は形成作用的である・・・生物的生命は機械力でもなければ活力でもない、それは歴史的自然の形成作用でなければならない。」

と書いています。これと格闘していきます。


・ここで特に重要なのは「歴史的自然の形成作用」で、ここでは「生命とは、その形成作用によって成立するものと言われている」と理解いただいて構いません。

「永遠の今の自己限定」というのは難しい表現だと感じられるかもしれませんが、このことは西田によって、「絶対現在」において永遠の過去と未来とが自己同一するものと考えられています。

・現在において過去と未来とが一つになっているということでしょうか?
ーはい、「今」という時は時間という流れの中に「包まれつつ」その時間全体を「包む」と言えるのですが、この「包まれつつ包む」仕方に基づく時間による形成作用こそが、「歴史的自然の形成作用」であると表現されています。さらに、こうした時間に基づく「世界の自己限定」によってのみ、「生命」は成立するものでなければならないということです。

ちょっと難しいですね。
福岡生命科学を通じて読み解いてみます。

自覚と先回り:
・生物学者である福岡さんは、生命が「動的平衡」を維持するに際して、やがて崩壊する細胞膜の再構築のために、崩壊する構成部分をあえて「先回り」して分解すると説明されておられますが、この「先回り」とは、まさに「ピュシス」そのものの仕組みともいえるわけです。

ーはい、どうして生命がこんなに長く、生きながらえているのか。数十億年も生き延びつづけている仕組みというのが、生命が時間に「先回り」していたから、というわけです。

・その通りです。西田は初期において「我々が我々の過去を想起し、之を歴史的に結合して考えることができるのは、すでに時間を超越せる自覚の事実によって可能であるのではないかろうか」と考えていました。

「自覚」というのは、ピュシスがロゴスよりもまえにあったということに気がつきなさい、という呼びかけのようなものとし理解すれば良いということでしたね。
ーはい、自覚とはピュシスの世界で起こることなんです。

・「自覚」の概念は、「行為的直観」とも非常に似ています。「行為的直観」について、福岡先生の「先回り」の概念を使って説明すると、つまり、生命というのは時間に対して先回りしないと、エントロピー増大の法則に逆らうことはできないわけです。そうしないと、生命は自らを維持できない。生命を維持するためには、生命はどこかでエントロピーの増大に先回りしなければならない。

「行為的直観」というのは、生きる行為の上での直観として、過去から未来へと時間が流れるのではなくて、それが未来から過去へと流れることを感じとる、ということです。要するに、エントロピーの増大というのは、未来において起こるわけです。そのみたいを先取りしないと、生命というものは自分を再構成できないんです。

・細胞が行う分解と合成というものは、同時的に進行することが不可欠なのですが、そのためには「先取り」しないといけない、それを西田は「行為的直観」と行っているわけです。という風に、つながるわけですね。

・ブリコジンは秩序が自動的に生成されるというところまでは、散逸構造理論で自身のビジョンとしてもっていたと思うんですけど、生命が自ら先回りして自らの秩序を壊しながらエントロピーを捨てるというところまでは言えていなかったのではないかと思います。

福岡さんの動的平衡では、「先回り」という言葉が用いられます。

これは、生命は、エントロピーの増大という未来に起こる事象に先回りして分解と合成をすることで、絶えず乱雑さ(エントロピー)を捨て続けながら、生命を動的に維持している営みを表現している言葉です。(これが、「先」ではなく、相反することが同時に起こっていることだ、ということに本書の後の方で気づかれていきます)

つまり、生命の営みにおける現在には、未来(や過去)が入り込んでいる。

これを西田は、行為的直観によって、永遠の過去と未来とが自己同一する「絶対現在」(永遠の今の自己限定)と考えているということですね。

ちょっと余談ですが、これを読んで思い出したのが、イギリスロマン派の先駆けとなった詩人ウィリアム・ブレイクの「無垢の予兆(Auguries of Innocence)」という詩です。

一粒の砂にも世界を

一輪の野の花にも天国を見、

君の掌のうちに無限を

一時(ひととき)のうちに永遠を握る

ブレイクの神秘思想を説明するのによく用いられるこの4行ですが、「一と多」の同時的把握が表わされていて、まさに西田のいう「永遠の今の自己限定」なのではないでしょうか。

このあたりは東洋における曼陀羅思想や、茶道や華道など「永遠の儚さ」を表現しようとしてきた日本文化ともすごくつながる気がします。

ちなみに、箇条書きの最後に書かれている、イリヤ・ブリコジンの散逸構造理論は、エントロピー増大の法則(秩序→混沌)に対して混沌から秩序が生成されていくという理論で最初出合った時は衝撃を受けました。ノーベル化学賞も受賞していて、自己組織化とゆらぎという観点からも示唆に富み、経営学者の野中郁次郎先生が「企業進化論」でも踏み込んでいます。

環境と樹木は包みつつ包まれる – 「逆限定」の世界

話を戻します。
「歴史的自然の形成作用」が一体何かということはまだ明らかになっていません。
それを理解するためには、「逆限定」という難関を突破しなければなりません。(池田先生は、この逆限定を理解すれば西田哲学を理解したと言えると述べています)

逆限定:
・ダーウィンは、環境からの生物への働きかけというのを「選択圧」、つまり環境が生物に与える影響を主としてみているわけです。それに対して、今西先生は、生物の側から環境を認識することを主体性として捉えています。つまり、ダーウィンにおいては生物の主体性というものが忘れられている、と指摘しているわけです。

・今西先生の棲み分け理論においては、生命主体が種であれ個であれ、ニッチ(生態的地位、あるいは生物種が利用する)を選択する場合、環境(生息場所)との主体との関係が、あくまで包まれつつ包むという逆限定のかたちになっていて、その限りにおいて、今西の棲み分け理論というのは全く正しいわけです。

・具体的には、加茂川で、流れが早いところと緩慢なところとでは、カゲロウの形態が異なっていたというのが今西の棲み分け理論の着想です。このとき、カゲロウは川の流れという生息場所に包まれながら、カゲロウ自体は、その流れ自体を包んでもいるわけです。環境と生命とが互いに「逆限定」的に働き合う、つまり互いに限定し(され)合っているというっことですね。

生命とは、環境に包まれながら、逆に環境を包んでいるという、その相互の作用のことを指しているというのがここで言われている「逆限定」ということですが、どういうことでしょうか。

池田先生は、言葉を変えて、年輪と環境のたとえで説明します。


年輪と環境の逆限定:
・年輪においては、時間が空間の中に現れていますね。つまり、時間というのは一つの流れなんですけど、年輪というのはそれが空間の中に限定されたものなんです。

・普通の考えでは、環境が樹木を限定するはずなのに、樹木の方が逆に環境を空間の中に限定してもいるわけです。

・時間と空間とが逆になるわけですよね。時間という流れのあり方が空間という同時存在という秩序に逆に限定されるわけですよね。外部(環境)が内部になるわけです。

環境によって年輪がつくられると同時に、そこに現れる年輪というのは明らかに樹木によって作られたわけです。その作られた年輪が、実は環境あるいは歴史を作っている。これが西田の「作られたものから作るものへ」ということです。つまり、樹木は環境に包まれていると同時に、環境を包んでいる。

このあたりから、福岡さんと逆限定との格闘がはじまります。
この福岡さんの疑問や理解のできなさが、読者にとっての救いにもなるわけです。

・私が難しいと感じるのは、次のようなことです。まず「樹木は環境に包まれている」。これはわかります。そして、樹木の内部にある年輪には、それまでに環境が樹木にもたらしてきた様々な作用が疎密やその他の模様のパターンとして年輪の中に刻まれているので、それが一種の「樹木が環境を包んでいる」。ここまでもわかるんです。

・でも、この両者が矛盾関係であるためには、環境が樹木に何らかの作用を成したと同時に、樹木の年輪が何らかの作用を環境に戻さないと逆限定にならないのではないか。ということなんです。

この後、池田先生との応酬が(1章まるまる)続くのですが、結局のところ、

環境と樹木(年輪)における逆限定、すなわち「包まれつつ包む」というのは、

A:環境が樹木(年輪)を包み、同時に環境は樹木(年輪)に包まれている
B:樹木(年輪)が環境を包み、同時に、樹木(年輪)は環境に包まれている。

という相反するこれらのことが同時に起こっているということです。
それぞれどういうことかというと、

Aについては、
– 第一の方向:環境の変化が、年輪の形成に対して波状のパターンを刻み込んでいる作用(=環境の変化が年輪のあり方を規定する)
逆作用:年輪に刻み込まれた波状のパターンそれ自体が、環境のあり方(変化)を規定している

Bについては、
– 第一の方向:環境が年輪に時間を刻み込む作用(時間の空間化)
逆作用:年輪が環境に対して時間を解き放つ作用(時間が生み出される・作り出される=空間の時間化)

ということになります。

ロゴス的思考にはにわかに理解しがたいわけですが、つまり、互いに相反する矛盾していることが同時に存立している状態、それが逆限定とよばれているわけです。

時間は生命活動そのものによって生み出されている?

ピュシスにおいては、環境が年輪を作ると同時に、環境は年輪によって作られている。(ちなみに、これは量子力学における観測問題とは異なり、ピュシスにおいては観測するしないにかかわらずそうでなければならない、ということになります)

過去の環境が年輪を見ればわかるということは、それが年輪によって作られているからですし、たった今も樹木は生きつつあって環境に作用を及ぼしています。つまり、環境は年輪によって作られているし、環境は年輪を作っているわけで、それはまさに同時的な存在として逆限定的に作用しているということになります。

・私は、細胞における合成と分解ということについて、それが同時に起こっているということを言いたいがために、一つの作用に対して「先回り」して他方が行われているのだ、と表現しています。ーはい、まさに西田が「逆対応」「逆限定」といっているのは、まさに福岡先生の「先回り」のことです。

・つまり、「包みつつ包まれる」「作りつつ作られる」というある種の一見逆向きの作用が同時に起こっているということは、そこにある種の円環(運動)が起こっているということで、その円環が実は時間を生み出している

・ゼノンのパラドックスついていえば、点としての時間というか点の集合としての「ゼノンの矢」を構成する。そうした点の矢が、どうして実際のピュシスの世界においては、滑らかに繋がれているかは、相反することが絶え間なく起こっているが故に、そこから時間が湧き出しているからだ、と説明できるわけです。

ここは、ハッとしました。
仏教の縁起思想においては、まさにその瞬間瞬間、常に同時に世界が現起すると考えられます。そのときに、世界は非連続的であると同時に、一方では、実感としては世界は滑らかに連続している感じがするということをどう捉えれば良いのか、というのを感じていたことがまさに語られている。生命が流れの中で動的な平衡を維持するということそれ自体によって、時間が生成されている、と。

つまり、物理的な時間というのは存在しないということになります。


生命に追い越されるものとして時間というものが作られた。このことが本当の意味での生命が時間を生成している原理といえるのではないか。生命自体が時間の中に流されているように見えるけれども、実は生命は常に時間を追い越していて、追い越すことによって初めて時間が生み出されているんじゃないか。

・生命は確かにリズム(律動)なんだと思います。それは耐えず追い越しては追い越されるという循環を作らないと時間が生まれないからだと思うんです。で、それを繰り返しているのが動的平衡という作用・仕組み。なので、動的平衡の観点からみると「物理的な時間」というものは本当は存在しないんですね。

・エントロピー増大の法則よりも「先回り」してあえて(自分を)壊して作る、というのが動的平衡的な生命現象でした。

・「先回りする」ということは、時間を追い越すことによって時間をつくって、そしてちょっとだっけエントロピー増大の法則よりも先んじであえて壊して創るということを行うことによって、(エントロピー増大の法則によって生命が死に向かって)どんどん坂を下っているのを絶えず少しづつのぼりかえしながら、でも全体としては、ずるずるとその坂を下っていく。というのが生命だと思うんです。

 

このベルグソンの孤(上の図)はとても興味深いです。

物質が重力によって坂を転げる万有引力の法則と、エントロピー増大の法則は単位系が違いますが、秩序の高い状態が少しづつ崩壊して秩序の低い状態に陥っていくことの便宜的モデルとしています。

生命は、エントロピー増大の法則に先回りしながら分解と合成していくことで、坂を登り返しながらも、少しづつ(死に向かって)坂を降りていく(老化)。

そして、僕らの当たり前だと、時間が先にあって、その中を生命が生きているようにみえるけれども、実な生命は常に時間を追い越していて、むしろその「先回り」によって時間が生成されている。

時間そのものの捉え方がひっくり返る、なんとも凄まじいパラダイムです。

 

まとめ

ということで、もうお腹いっぱいだと思うのですが、最後に福岡さんがこの対談を振り返ってくれていますので、まとめとして要点を抽出して終わりにしようと思います。

いやぁ、今後も何度も立ち返るであろう凄まじい本でした。

福岡伸一、西田哲学を読む――生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一


福岡さんの動的平衡についてはこちらもおすすめ。福岡伸一さんの講義をみられる数少ない動画です。

 

【動的平衡、ピュシス、”あいだ”】

原子の極めて乱雑な振る舞いと生命の美しい秩序維持との、絶対的に矛盾した相互連関性に関わる問題については、先駆的な生命科学者エルヴィン・シュレーディンガーが、生命を「負のエントロピーを取り込む」として定義することに至るわけですが、彼はその秘密を解き明かすことはできなかった。

・ルドルフ・シェーンハイマーだけは、「身体構成成分の動的な状態」という表現を用いて、生命の鍵を生命の「動的な状態」に見て取った。生命に容赦なく降りかかるエントロピー増大の法則、例えば高分子は酸化され分断され、集合体は離散し反応が乱され、タンパク質は損傷を受けつつ変性するわけですが、そうした乱雑さの増大する流れに抗して、なおも生命体の秩序を保持し続ける耐久性とそれを可能にする構造の仕組みとして捉えることに成功している。

この仕組みは、まさに西田の言う「歴史的自然の形成作用」に他ならないわけですが、その形成作用こそがピュシスに本来備わる「逆限定」的仕組みであったと僕は思います。

・そして、福岡生命科学においては、その具体的な生命の真の姿は、生命体を構成する細胞の内部に依拠するのではなく、その細胞の膜上、いわゆる”あいだ”にこそみることができる。

生物における「生命の営み」とは、生命体の内部を意味する「生物」それ自体と、環境である外界世界を意味する外部である「無生物」とを区切るその両者の「あいだ」、すなわち、両者を区切る「細胞膜」上の互いに相反する合成作用と分解作用との同時性にある

・「もしやがては崩壊する構成部分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。」「流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになる」(「生物と無生物のあいだ」p167)

・つまり、生命がエントロピー増大の法則に抗う唯一の方法とは、生命システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろ、そうした仕組み自体をエントロピーの流れの中に置くだけのことだった。

【逆限定と歴史的形成作用】

生命を機械論的に文節して理解していこうとするロゴス的な考えでは、全体としての(一つの統合体としての)生命が一体なぜ成り立っているのかということについて本質的に説明をすることができなかった。世界は分けないことにはわからないのですが、しかし、分けてもわからない。そして、分けてもわからない部分こそが、生命にとって最も大切な、根幹的な部分であるとも言える。まさにヘラクレイトスのいう「自然(ピュシス)は隠れている」ですね。

・特に、エントロピー増大の法則というものが、宇宙全体を支配している中で、生命という秩序ある仕組みに対しても常にその法則は降り注いでいるにもかかわらず、では、どうして生命はそれに反して秩序を保っていられるのかということについては、シュレーディンガー含め誰にも語ることができなかった

エントロピーの増大に対して、自らを壊して自らを作るという「自己表現的要素」が実現できれば、はじめて世界が生命(の世界)になる、という風に、まさに動的平衡の生命観がここで予言されています。このあたりは西田の生命論の真骨頂。

・生命というのは結局のところ「歴史的自然の形成作用」のことである。この形成作用の大きな特色というのは、相互否定であり、逆限定であり、矛盾的自己同一であるということ。つまり、生命とは「逆限定的に耐えず環境と一つになるものである」として、従来の哲学や科学では見落とされてきた、あるいは見えなかった部分を、西田が非常にはっきりと取り出して見せたということが言えるのではないでしょうか。

・環境が樹木を「包みつつ」樹木に「包まれ」、樹木は環境に「包まれつつ」環境を「包む」という逆限定的な関係がここには(みえないながらも)現れているのですが、「逆限定」あるいは「絶対矛盾的自己同一」とはつまり、環境と樹木の「あいだ」のことであって、そこにおいて環境と樹木は相互に否定しあっています。こうした相互否定関係の上に成り立つピュシスの働きというものが「歴史的自然の形成作用」ということになるのです。

エントロピー増大の法則に対抗して生命はどうして生命たりうるのかということを考える時に大切なのは、つくることを頑張っている生命が、実はものを作るのと同時にエントロピー増大が迫ってくるよりも先に自分を壊している、というこの「隠れ」に気づくこと。つまり西田や池田先生が言われる意味での実在論的な視点を持つということだと思うんです。

生命存在とは、西田の表現によれば、「作られたものから作るものへと動き行く世界」であると言われますが、これを福岡流に言えば、細胞膜上の「分解作用から合成作用へと動き行く世界」となる。

・西田はその「動き行く世界」について、過去は現在において、過ぎ去ったものでありながら、いまだ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来たらざるものであるが現在において既に現れているものであり、「現在」の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、「時」というものが成立するのである。

・時間というものは、過去から未来へ線的に流れるだけでなくて、向こう(未来)から回ってくる時間もあるということ。あえて、生命に追い越されるものとして時間というものが作られた。というのが、本当の意味での生命が時間を生成している原理といえるのではないか。

【時間と空間の絶対矛盾的自己同一】

・ロゴスの思考ではこうしたピュシスのあり方は矛盾律というものに抵触して、間違っているとされるんです。しかし、そうするとそもそも、時間と空間というものを考えることができなくなってしまう。

時間と空間というものは全く矛盾しています。一方は流れていくものだし、もう一方は流れない。しかし、現実においては時間と空間というのは一つになっている。そのことを、絶対矛盾的自己同一と西田は言っているわけです。

ピュシス(自然)が持っている本来の時間というものが、近代科学では完全に忘れられていた(空間化されていた)と言えるが、西田はそれを回復させようとしていた。生物学においても、まさに時間が消されていた歴史と言って良い。例えば分子生物学では、細胞の動きを止めてみていた。そうしないと、ロゴス的に文節してみることができないからです。

・西田では、「時間即空間」「空間即時間」という表現も使われてますが、このときの「即」とはまさにイコールということなんです。形態としては全く矛盾しているのに、実際には常に同時に存在している。

・僕は学生によく「矛盾律をおそれてはいけない」と。矛盾律に触れることを恐れてしまうと、できるだけ矛盾しないものだけを理解しようとするようになってしまうから。しかし、現実の自然の世界は矛盾に満ちているんだ、と。

 

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