自然と共生していくための生命的知性としての神道(神道とは何か/鎌田東二)
「地球全体の大いなる営みをよりホリスティックに捉える視点が21世紀のライフスタイルに必要なものの見方であり生活の流儀になっていくのではないか」
そんな問いかけを実は多くの人が気付き始めている今の時なんだと思う。グローバル資本主義のうねりに飲み込まれて自らの根っこを失う(南方熊楠の言うデラシネ化)方向に進むのではなく、大自然の営みを受け入れ、つながっていくためのヒントを日本人は神道的文化を通じて持っている。
それを、鎌田さんは、神道は「センス・オブ・ワンダー」を感じることだ、と表現する。
ふとした時に、故郷にずっと古くからある神社にお参りする。自然に囲まれたその場所でエネルギーをもらう。
信仰の有無とは関係なしに、実はそれって、物凄い文化的リソースだよね。鎌田東二さんの本はそんなことに気がつかせてくれるし、神道を宗教的側面だけで捉えてしまってはダメだということがよくわかります。(まさに南方熊楠が神社合祀反対運動で唱えたように)
個人的には、武道や能をはじめとする身体性に関する知恵(身体知性)と神道や修験道などの文化的蓄積にみられる自然と共生していく生命的知性、そして禅や日常的儀礼に組み込まれている瞬間的に自分自身をマネジメントする精神的知性こそが、日本の持つ最大の文化資産であり、これからの時代にグローバルに価値の再認識が行われてしかるべきものだと思っている(マインドフルネスもその流れの一つ)ので、そのあたりでオススメの本があればぜひ教えていただけると嬉しいです。
なお、本書については、松岡正剛さんの千夜千冊でも解説されているので、ぜひそちらも。
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(以下、メモ)
詩的理解こそ神道の真髄
- 神道は詩的に理解しなければその真髄はわからない。つまり美的価値、美的感情、美的様式を抜きにした神道というものはありえない
- 日本人の宗教を美の宗教と見る人がいる
- 神社に立って森厳かたるきに触れ、手水を取り、清々しさや爽やかな気配を感じとった時、そこに何かがし美的な佇まいというべきものが現出しているのをはっきりと完治する。美的感情を抜きにした日本の文化は存在し得ない
日常に宿る神道
- この空気そのもののの中にいる何か
- その破壊的側面とともに、もう一つの創造的な側面があることを見落としてはならない
- 自然は常に創造と破壊、荒ぶる力と和らぐ力、荒御魂とに気味玉の両面を持っているのである
ディープエコロジーとつながる祭りの精神
- 祭りは目に見えないものと目に見えるもの、大自然と人間と、人間の営みである文化、文明の調和をもたらそうとする行為
- 祭りには従って、慎しみ深い経験な神事的部分と、心身と魂を全身から振動させ、奮い立たせるような荒ぶる風流的な側面の両面がある
- 神輿を担い、掛け声をかけて野生的な身体感覚を全開させる
- 全身を使った表現を通して荒魂と和魂を和合させ、奇(くしみ)たまと幸(さち)御霊に変容する。こうおして、体と心と魂の三位一体となった調和を測ろうとしている
- ★人間がまことに和やかに静かになるためには、自分の中に眠っているアラブる力を解放させ昇華させることができなければならない。そうすることによって初めて、真の安らぎや和らぎを得ることがd系る
- 荒ぶる力や暴力性や野生性を抑圧し否定し排除するのではなく、それを祭りの回路の中で消化させ、発散させる知恵と工夫が必要なのだ
- 共同体の様々な軋轢も祭りを通して緩和され、鎮められる
神と仏はなぜ習合したか
- 狩猟生活において、人間は自然とコントロールするという意識を持ち得ない。むしろ死産から贈与されるものを畏敬の念を持って受け取るという意識がそこには底流している
- 縄文遺跡もイギリスやアイルランドの巨石文化の遺跡もともに当時の朝日あるいはげしの朝日の方角に向いている
- 南方熊楠の人車合祭反対運動には、重要な思想的かつせいかつぶんか的な渓谷が含まれている
- エコロジーという言葉を日本人として最初に使い始めた熊楠は、人車の神池神林が持つ意義をとりわけ強調した
- 珍種の社として親しまれた大切にされていた神社や祭りは自然の力に恭順する素朴な生活文化の中核であった
センスオブワンダー
- 自然という言葉は古語にはない
- それに変わって、具体的な山川海などの言葉のほか全体的な概念として命があった。その命と神には同じ意味内容が含まれている
- 言葉を探っていくと命はいとのとちに別れる。い:いき、生きること。のは英語で言うof。ちはれい、風、道、血液、にゅうなどを表し、物事の運動性、流動性、循環性をあわらしている。
- 従ってちと言う言葉自体に霊的精神的な次元から自然現象、物質的な次元まで全て含まれグラデーションをなしている。命が、霊的かつセイン心的な次元から物質的な事前までを含む全タテいきな循環の中にあるものだと捉えられているのである
神と仏の違い
- 神は在るもの、仏は成るもの
- 神は来るもの、仏は往くもの
- 神は立つもの、仏は座るもの
「神道はそうした大自然の営みを受け入れ、その道に従っていこうとする文化の日本列島的表現ではないか」