色。社会。再認識。〜カラーハンティング展とデザインという行為〜
そういえば、先月行ったカラーハンティング展〜色からはじめるデザイン展〜で、
ディレクターの藤原 大さんがこんなことを書いていた。
例えば、情報に色をつけてみる…多大な情報が溢れる社会において、色の関わる未来に思いを馳せていく、ということをしたい
世界中をまわって、自然や都市の中の現実の色を絵の具で写し取り、
文字通り色を採取していったという彼のこのデザインリサーチ。
あそこまで「色」と真剣に向き合った人もなかなかいないだろう。
(そういえば、以前に書いた「ことばの波長が交じる、ということ。【ブログ再開】」もカラーハンティング展で得たインスピレーションからきたものだった)
(写真:カラーハンティング展)
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ちょっと自分の話。
僕は服が好きだ。
ブランドや流行といったものには疎いが、服を見るのも、選ぶのも、着るのもとても好きだ。
その中で、服の「色」というのは、特別な意味をもつ。
ここ最近、身にまとう「色」が変わった。
昔は心地よかった「深みどり」が、この2年間くらいで「えんじ」にかわり、
さらにそれは「ネイビー」へと移った。
「えんじ」は派手すぎず、でも自分の自信と存在を強調するのには十分な色だったと思う。
でも今は、「僕はここにいるよ」とアピールをする必要を感じなくなったのか、
あるいは、自分の存在をそれでもひっそりと感じてくれる人の有難みを覚えたのか、
静かな青い深みに袖を通している方が、しっくりくる。
意識的に自分に合わせて「選ぶ」というのではない。
自分が無意識のうちに身にまとっている「色」は、自分の状態をひっそりと教えてくれる。そんな感じだ。
あるいは、以前は当たり前のように袖を通していた服に身体を包むと、なんだかむずがゆくなり、脱いでしまったりする。そこでまた、自分でも気がついていなかった自分の変化に気がつく。
それは、自分でも気がつかないような、社会に対する無意識的な関係性の変化だったりする。
だから自分と社会とのスタンスを再認識するためにも、「色」は僕にとって大切なようだ。
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僕の尊敬するデザイナーである原研哉さんは、デザインという行為について「情報の建築」という表現を使う。
デザイナーは受け手の脳の中に情報を建築を行っているのだ
(岩波書店「デザインのデザイン」p63)
様々な感覚からくる刺激(外部入力)と、それによって呼び覚まされた様々な記憶が脳の中で複合され、イメージが形成されていくが、そのプロセスに積極的に関与して意図的・計画的にイメージを発生させることがデザインという行為である、
というわけである。
そういう意味では、
情報に「色」をつけるという行為や、
服の「色」が僕と社会の関係性を再認識させてくれる体験も
デザインという行為でつながっているのかもしれない。
藤原大さんの言う
「多大な情報が溢れる社会において、色の関わる未来に思いを馳せていく」
というのはとても興味深い行為で、
彼の企画展は、
デザインという言葉自体が広く使われるようになった今、
デザインという行為と、現在の社会との関わり方を
一つ一つの色を通して丁寧に確かめていくような、
そんな世界だった。
アフリカの人々にとって「色」はどういう存在なのだろうか
実は今度11月29日にやるエシカルファッションのイベントについて書いていたら、そのままいつの間にかこのエントリーを書いていました。
ヴィヴィアン・ウエストウッド、ステラ・マッカートニーなど世界的なブランドと恊働し、最先端のデザイナーの視点を、なめし、刺繍、ビーズ技術などアフリカ独自の伝統技術と組み合わせて「エンパワーメント」を実現している非常に面白いプロジェクトです。
アフリカの民族文化や伝統アートはとても「色」鮮やかだったりします。
僕がケニヤのマサイ・マラという地域に滞在したときも、迎えてくれた人達の服とビーズ細工がとても鮮やかで鮮烈な印象を受けたのを覚えています。(この写真、懐かしすぎる….)
彼らにとって「色」はどういう存在なのだろうか。
そして、その「色」が今デザインと結びついて、こうして日本にいる私たちの手元に届く、ということの意味を考えています。
アフリカでのものづくりを通して、女性のエンパワーメントを目的とした国連関連のプロジェクト。
調達・生産・加工すべてをアフリカで行いながら、アフリカのミクロな生産者と国際的な価値を統合させていく仕組み、新しいエシカルファッションビジネスのカタチ、 興味ある方は是非どうぞ。詳細はこちら