禅と日本文化/鈴木大拙

禅と日本文化/鈴木大拙

鈴木大拙さんの「禅と日本文化」。ようやく読みました。

禅がいかに日本人の性格や日本文化に影響を与えているか、禅とは何か、ということを欧米人向けに行った英語での講演を翻訳したもの。

これまで読んだ禅の本とはまるで違う感じ。

松尾芭蕉の古池に飛び込む蛙の句が、いかに一般的な知的概念からの理解では到達できない、無意識そのものへの洞察を含んでいるか、とか、欧米人向けだからなのか、すっごく懇切丁寧に言及されていて、かつ、その洞察に圧倒されます。

「悟りの原則は事物の心理に到達するために概念に頼らぬことである」

「わびの真とは「貧困」である。貧しいということはすなわち世間的な事物ー富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、何か時代や社会的地位を越えた、最高の価値を持つものの存在を感じること。これがわびを本質的に組成するものである」

「生および事物の究極心理は一般に、概念的にではなく直覚的に把握されるべきだという観念、この直覚的知識が哲学のみならず他のいっさいの文化活動の基礎だという観念こそは、禅宗が日本人の芸術鑑賞の涵養に寄与してきたところのものである」

 

(以下、抜粋メモ)
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(禅と美術)

  • わびの真とは「貧困」である。貧しいということはすなわち世間的な事物ー富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、何か時代や社会的地位を越えた。最高の価値を持つものの存在を感じること。これがわびを本質的に組成するものである
  • 個々の事物をそれ自体で完全なものとみると同時に、「一」に属する「多」の性質を体現するものとみる禅の方法

(禅と剣道)

  • 剣道を錬磨する広間を道場といっている。道場は宗教的練習に使われる場所の名である。その梵語の原意は悟りの場所である

(禅と俳句)

  • 簡単にいえば、禅の哲学は大乗仏教のそれであるが、禅にはこの哲学を体験するための一種の特別の方法がある。それは、我々自身の存在、すなわち、実在そのものの秘密を直接に洞察することである
  • べつにブッダの言葉や文学の上の教えに従ったり、また、より高い存在を信じたり、また、戒律的な鍛錬の公式を実践したりすることなどによらないで、ある内的体験を無媒介的にうることである
  • (中略)「悟りの原則は事物の心理に到達するために概念に頼らぬことである。概念は心理を定義するのには役立つが、われわれが身をもってそれを知ることには役に立たぬ。行きた心理そのものではない。それゆえ、それには創造性がない。
  • (中略)生および事物の究極心理は一般に、概念的にではなく直覚的に把握されるべきだという観念、この直覚的知識が哲学のみならず他のいっさいの文化活動の基礎だという観念こそは、禅宗が日本人の芸術鑑賞の涵養に寄与してきたところのものである。
  • ここに、禅と日本的な芸術概念との精神的関係が打樹てられる。
  • 心理学的に言うとこの阿頼耶識(Alayavijnana)すなわち「集合意識」をわれわれの心的生活の基礎とみなすことができる。しかし、芸術的または宗教的生活の秘密を把握するために実在そのものに到達せんと思う時には「宇宙的無意識」となすところのものを持たなければならぬ。
  • 芭蕉はこの「無意識」を直覚し、その経験が古池に飛び込む蛙の句に表現された。この句はたんに社会的生活の騒がしい表面の下にある、とある人々だけが考える静寂だけを詠じているのではない。それと同時にこの複数性の世界において遭遇するところの、そして宇宙的無意識におよぶときにのみ価値と意味をうるところの、さらに下方に在る或ものを指しているのである。
  • 故に、日本の俳句は、長くて、手のこんだ、知的なものたることを要しないのである。事実、それは観念的な構成を避ける。観念に訴えれば、その無意識への直接的指示や直覚的把握が、狂い、損なわれ、妨げられ、永久に、その新鮮味と生命力とを失う。