安易な同調や対立ではなく、差異を差異のままにとどめておく力。信仰の尊さと盲目の危うさと。(鹿の王 水底の橋 / 上橋菜穂子)

安易な同調や対立ではなく、差異を差異のままにとどめておく力。信仰の尊さと盲目の危うさと。(鹿の王 水底の橋 / 上橋菜穂子)

上橋さんの物語はやっぱりやっぱり面白い。
医療小説でありながら、ウイルスや菌のあり方を人の内側や社会と重ね合わせた前作で登場した、オタワル医術の名医ホッサルのその後を描いた続編「鹿の王 水底の橋

最初は淡々と物語が進んでいく感じなのだけど次第に込められたテーマが浮かび上がってきてぐいぐい引き込まれる。ツオル帝国の国家医療・清心教医術と、異国の穢れた医術とされ撲滅の危機に追われるオタワル医術のせめぎ合い。読み進めていくと東洋医学と西洋医学のモチーフが浮かび上がってくる(上橋さんのお母様の肺癌治療の中で西洋医学と東洋医学を両刀を使う医師との出会ったことが物語の衝動となったそう)。

物語の節々にでてくる、自分の信念とはかけ離れた価値観・世界に出会い、衝突し、揺れ動いていく登場人物の掛け合いがとても秀逸。

自分の絶対基準となってしまっている世界から飛び出て、異質な未知の世界へと踏み出していく好奇心と喜び。

信仰の尊さと同時に、盲目になることの危うさ。

安易に理解した気になったり融合しようとしたりせず、でもそれを対立ではなくて、差異を差異のままにとどめておくことの大切さ。
(特にホッサルの恋人ミラルの態度が、周囲の二項対立のがんじがらめの幻想を解きほぐしていく筋書きにはやられた。。)

あと、コロナとのタイミングが重なったというのもさることながら(それはむしろ感染症を扱った前作の方かもしれない)、現代文明社会とはある種、逆の構図になっていることが物語の奥行きを増しているように感じた。前提となる認識や視点をリフレームすることで絶対的な正しさなど存在しないことを顕著に突きつけてくれる(たまたま正月に手塚治虫の仏陀を読んでいてヤタラにルリ王の孤独さを説くシーンが重なった)。

「私たちを形作っている全ての部分を見極められる日が来たとして、その時私たちは呆然とするんじゃないかしら。そこまできても、なお、生きていることの全てを捉えきれないことに。」というミラルのセリフと同時に、それを理解しながらなお納得できないホッサルの「私が納得できないのは、できることとできないことの線引きに、嘘と諦めが紛れ込む危険をあなた方が無視していることなんですよ」「最初から全体と見ようとして、みているるもりになっているから、先に言い訳を作ってしまっているから、見つけられるかもしれない道を見つけずに立ち止まることになるのでしょう」という言葉もまた真実。

私たちはものごとをすぐに二項対立的に認識してしまいやすいが、そこをぐっと踏みとどまって、差異をただ差異のままにとどめておくことができるどうか。自分とは異なる正しさが常に複数存在することに一人一人がどれだけ誠実に向き合っていくことができるだろうか。多元的に複数性の中で生きるゆらぎを許容することができるだろうか。

そんな問いかけは、分断を生み出す正しさではなく、共感できなさ、理解できなさ、わかりあえなさから出発することがかつてなく人類に問われている今、とても大切になっていると思う。年初めに読めてよかった。自戒を込めて。

「オタワル医術は身体の内側で何が起きているか、その原因について慎重に探ることを第一に考える。同じ心ノ臓の病変でも、その病変の在り処は千差万別で、それに気が付かずに治療をすると大きな間違いを犯しかねない。我れらは、事を分けて分けて、分け続ける。分かち難い真実へたどり着くまで。君らは、むしろ、まずはまとまりを知り、そこから変化の予兆を感じとるわけだな

「私たちは全体を診ています。顔色、表情、話し方、歩き方、息の匂い、舌の状態、目の状態、尿の色や匂いなど。患者との真につながることができれば、病を己として感じることができるようになり、自ずと正しい治療の道が見えるもの」

「貴方方はそれが神の御意志なのだから、むしろそれをとことん見つめて、最終的には、人が病むことも、苦しむことも、やがて死ぬ存在であることも心から受け入れられる道を見出そうっていうんだろう?それはわかっているよ」

「それがわかっているなら、なぜそれを否定するような言い方をされるのですか」

「なぜなら、俺にはそれが体のいい諦め。危うい口実だと思えるからさ。あなたがおっしゃったことは私にもわかります。確かに人は不平等な身体と運命を持って生まれてくるし、それはどうこうしようとしたって、最後には人は死ぬものです。ただ、私が納得できないのは、できることとできないことの線引きに、嘘と諦めが紛れ込む危険をあなた方が無視していることなんですよ」

「先に言い訳を作ってしまったら、見つけられるかもしれない道を、見つけずに立ち止まることになるでしょうが。

医術師が神を持ち出すのは危険極まりないと、私は思う。人ってのは、良い言い訳が見つかると逃げたくなる生き物だ。それでいて、逃げることは後ろめたいもんだから、いつの間にか言い訳を鉄壁の理屈に祭り上げてしまう。神さまがこう言う存在に生んだから、なんて言われたら、そこで全てはどん詰まりだ。医術師にそんな口実を与えてどうするんですか」

「いずれ、おれたちも、どこかで線引きをしなくちゃならなくなるかもしれない。どこかに諦めなきゃならないところがあるんだろう。だけど、それは少なくとも、今君らが線を引いているところじゃない。なぜなら君たちには見えていなくて、俺たちには見えていることがあるからだ。医術師が治せる病なんてごくわずかしかないのに、直せるわずかな患者を諦めたら、医術師である意味がない」

「私たちは、病に、というか、身体に注目しすぎて、全体をみていなかったなとか」

「全体ってのは、部分の集合だ。部分を見極めてはじめて全体が見えてくる。最初から全体と見ようとして、みているるもりになっているから、真那みたいに大雑把になるんだよ」

「本当にそう思う?私はそうじゃない気がしているの。私たちを形作っている全ての部分を見極められる日が来たとして、その時私たちは呆然とするんじゃないかしら。そこまできても、なお、生きていることの全てを捉えきれないことに。

清心教医術が神まで持ち出して、この世の全てにこだわるのは、部分が組み合わさって全体になっても見えないものが、すでに、私たちにはぼんやりと感じられるからじゃないかしら。

私は、一度オタワル医療の外に出てみたい。いつの間にか私の中で絶対基準になっていたものを壊してみたいの」

「この世の薄い膜の向こうには、実は無数の縁起の糸が張り巡らされていて、時折、何かが起きた時にだけ、その糸のつながりがみえるのではなかろうかと思うことがよくあった」


「自分の子でなくとも、群れ全体を守ることが、やがては自分の遺伝子の生き残りにつながるというような実利的な意識で開けでなく、やはり、他社の生病老子を目の当たりにして、放っては置けない、そして、他社の生病老死に、自らの生について思わざるを得ない、人の心の動きも関わっているように思う」
(解説, 上橋と津田先生の書簡集「ほの暗い永久から出でて」)

感染症は、社会的な病だと、私は思っています。私たちが集団(群れ)で生きる生き物であるからこそ、その脅威に晒されるわけです、私たちは社会(群れ)がなければ生きられませんから、どうしても、他者を巻き込むことになってしまいます(著者あとがき)