自己変容なしに、変化は機能しない(トランジッション/ウィリアム・ブリッジズ)

自己変容なしに、変化は機能しない(トランジッション/ウィリアム・ブリッジズ)

トランジッション(ウィリアム・ブリッジズ)、やっぱり面白い。

いつだったか覚えていないけど以前にも読んだ時よりも、はるかに鮮やかに感じた。(ちなみに、この本は泣く泣く参加を諦めたジェレミーさんセッション続編の事前図書)

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外的な変化への対処の仕方に関する情報はたくさんあるけれど、変化における内面の再方向付けや変容を真正面から捉えて、ここまで生きた言葉で指南してくれる本ってなかなかない。レヴィ・ストロースの「野生の思考」ではないけれど、伝統的社会における通過儀礼などの体験的要素が表層的には失われてしまった高度文明社会において、そうした自己変容を支える知恵を人生に取り込んでいくことはとても大切だなぁと。

“我々が始まりと呼ぶものは、しばしば終わりでもある”(T.S エリオット「軽いめまい」)

変化は受け取れなければ機能しない、自分が何かの「終わり」に対する対処するパターンの認識、古い習慣や行動パターンは集団から個として捉え始めていくことでゆっくりと解体していく、覚醒は現実をより深く捉える準備が整ったというサイン、トランジッションの最初のヒントがぼんやりとした観念や情景や活動のイメージとして出現することが多い、ニュートラルゾーンにおける無為で無目的な行動を通じて自己変容という重要な内的活動に従事することができる、などなど、もっと早く触れていたかったなぁと思う、すごく指南となる知恵がたくさん。ピンときた方はぜひ。

そういえば、UWに留学をしていた時に、卒業を英語でcommencement(始まり)というのがすごく好きで、卒業時に”commencement”というタイトルの詩を書いたりしていたなぁ。(語源はフランス語だそう)

ーーーー(以下、メモ)

・「変化」とは状況が変わることであり、一方「トランジッション」とは心理的に変わること。トランジッションとは、単なる外的な出来事ではなく、人生のそうした変化に対処するために必要な、内面の再方向付けや自分自身の再定義をすること。

・トランジッションが起こらなければ、変化を「受け取れない」ので、機能しない。トランジッションのはじめの頃は、新しいやり方であっても、昔の活動に戻っていることも多い。全てのトランジッションは何かの「終わり」から始まる。自分の人生の旅における「終わり」体験を振り返ることは、自分が何かの終わりに際してどのように対処するかを知る手がかりになる。★

・まず何かの「終わり」があり、次に「始まり」がある。そしてその間に重要な空白・休養期間が入る。「終わり」の見えない「始まり」に苦しむ人もいるし、「始まり」の見えない「終わり」に苦しむ人もいる。離婚、死、失業など明らかな苦痛を伴う変化は気付きやすい。しかし、結婚、突然の成功、夢のマイホームへの転居などの「良い出来事」におけるショックは見逃されやすい。病気の時に苦悩するのはわかるが、病気から回復することが困難をもたらすと知るのはショックである。働きすぎて疲弊してしまうのはわかるが、長期休暇が我々を落ち込ませる理由はわかりにくい。

・人生の午後のトランジッションは、謎めいていて単なる肉体的老化の結果として見過ごされやすいが、その過程ではより深遠なことが進行している。人生の前半を動機づけていた「何かを達成すること」への関心は失われ、それに代わって心理的・精神的な事柄への関心が高まってくる。個人の職業生活における重要なトランジッションに、「能力」の発揮が動機になっていた状態から「個人的意味」の探求が動機になる状態への転換がある。

・「存在」が「手放す」ことにつながり、「手放す」ことから「空虚」が生まれ、「空虚」から「新たなエネルギーと目的」が生まれ、そこからまた「存在」が生まれるという周期的なリズム。まさに人生における死と再生の過程を、何度も繰り返すことで、その知を蓄え世界に還元してすることが人生を締めくくる最終章に待っている。

・「生まれてくるもの」とは、新しい仕事ではない。それは、自己に対する新たな感覚、あなたが対処する新たな現実、自分自身を前進させる新たなアイデアである。

・我々が始まりと呼ぶものは、しばしば終わりでもある。何かを終わらせるということは、何かを始めることである。終わりとはそこからスタートする場所である。(T.S エリオット「軽いめまい」)

・通過儀礼から学べることの一つは、「終わり」が象徴的な死を伴うということである。彼らは新しい「始まり」にとまどっていたのではなく、それまでの生活が終わることで混乱していたのである。これ、レヴィ=ストロースの「野生の思考」とも非常につながる文化人類学的視点。

・自然な終わりの5側面:「離脱」「解体」「アイデンティティの喪失」「覚醒」「方向感覚の喪失」

・「離脱」は一瞬で起こるが、自分だと感じさせてきた古い習慣や生き方・行動パターンは、徐々に「解体(dismantling)」するしかない。それは、トランジッションのさなかにある人が、徐々に自分自身を集団の中の一人ではなく、一個人として捉え始めていくプロセス、「喪のプロセス」である。

・そこでは多くの感情が沸き起こったり感情によって節目をつけたりすることも多いが、それはあくまでもプロセスへの反応であって、プロセスそのものではない。多くの人はものごとの終わりに際して、生じてくるこの感情とこのプロセスを区別しない。しかし、喪失によって感情反応を示しているかという形式面のみに着目していると見落としがちなのが、我々は通過すべき儀礼や儀式などの実践を通じて、ゆっくりと、関係性やアイデンティティを解体・解消していくということだ。

・覚醒は、ものごとがトランジッションに向けて動き始めたサインとして捉えるべきである。そのときに考えねばならないことは、魔法とも言える昔の考えや深淵が、自分や他者についての現状よりも深い認識を妨げる手段として使われていなかったかどうかである。覚醒させれていく「現実」には多くの層があり、正しくない層などない。それまで理解していたよりも深い層の現実を見るべき時が来たというシグナルであり、現実をより深く捉える準備が整ったというサインなのである。覚醒に対して、このような視点を持っていないと、大切なポイントをものがして単に「幻滅」してしまうことも多い。

・変化とトランジッションの最も重要な違いの一つは、変化はゴールに到達するために引き起こされるもので、トランジッションは現在に人生のステージにもはや当てはまらなくなったものを手放すことから始めるものであるということだ。自分で、自分自身のために、「もはやふさわしいとは言えなくなった」ことが何であるかとしっかりと捉える必要がある。

・だからといって、このトランジッションの期間での、明らかに非生産的なこの空白の時について、後ろめたく感じる必要はない。従来のやり方以外では反応しにくい一連の刺激をあなたに提示して、あなたを「あなた」にし続けている。だから、あなたは一人になって、一見、無目的な行動をとる。そうすることによってのみ、「自己変容」という重要な内的活動に従事することができるのだ。~ 実はあなたは「ニュートラルゾーン」における基本的な活動、すなわち、徹底的に無為で儀式化されたルーティンを実践しているのである。

・欲求そのものをどうにかする必要はない。ただ、それに気づけば良いのだ。「あなたが何かに魅力を感じているという事実」「あなたが何かに興味を抱いているという事実」を否定し、自らの行動を抑制するのは、自分の首を絞めるようなものである。

・私が知っている人たちのトランジッションに入った時には、最初のヒントのが「観念」「印象」「イメージ」として出現することが多かった。ある情景や活動のイメージが生まれ、それに心が惹かれるという状態だった。そのようなイメージが生じていても、それに気づいていない可能性もある。それは、ぼんやりとした夢のように、意識できるギリギリのレベルの体験なのである。

・トランジッションと過去のパターンへの防衛的反応とを区別する一つの指標は、あなたをよく知っている人の反応。やり方に賛成か反対かではなく、彼らがあなたがやろうとしていることを何か新しいことと評価しているか、それとも古いパターンの繰り返しと見ているかに注目するのである。