解剖学者・三木成夫に読む、思考偏重な時代の内臓感覚的道標(後編)〜インナーネイチャーとしての陰陽リズム、胎児にみる生命4億年の歴史、自然哲学と象徴思考〜

解剖学者・三木成夫に読む、思考偏重な時代の内臓感覚的道標(後編)〜インナーネイチャーとしての陰陽リズム、胎児にみる生命4億年の歴史、自然哲学と象徴思考〜

解剖学者・三木成夫さんのでデビュー作にして伝説的名著「内臓とこころ

前編では身体の奥深くで生命の根源的な営みを続ける内臓感覚(植物性器官)の成り立ち、こころとの深いつながりをみてきましたが、

後編では、発育過程をなぞりながら人のこころがどのように形成されていくのか扱った第三部を。あとは、「生命とリズム」「胎児の世界 人類の生命記憶」という三木さんの他の著書もとても面白いのでこれを機にまとめて書き留めておきます。

(本記事の目次)
・身体に隠された夜更かしのリズム
・自然や人体を織りなす無数のリズム
・胎児にみる生命4億年の進化
・赤ん坊16週目までに起こる「潮汐リズム」から「昼夜リズム」への移行
・体内に埋め込まれた自然のリズム「インナーネイチャー」
・「夜行型」や「朝の不登校」の生理学的な理解と見直し
・地球上の生物共通にみられる7日の周期
・「”しかけ・しくみ”を抽出する眼」と「”すがた・かたち”を静観する眼」
・「内臓・こころ・植物性」の自然哲学的回復。「私」の物語から「私たち」の物語へ

前編より再掲(三木成夫, 内臓とこころ)

身体に隠された夜更かしのリズム

まず面白かったのが、人体に隠された自然のリズムに関する「睡眠壕」の研究。

ドイツのマックス・ブランク研究所によるもので、時間のわからない特別な部屋で長期間好きなように寝起きをさせるという実験の結果、驚くべきことに、どんな人でもほぼ例外なく24時間よりも約1時間も長い「25時間」という根深い周期が発現するのだそうだ。

つまり、毎日毎日、時間がずれ約2週間で昼夜の逆転が起こる。そこでは、本人も気がつかぬままま、この「夜ふかし朝寝」を地で行く生活を送っていたことになるのだという。

これを三木氏は「夜行型人間の生理学的構造」と呼ぶが、普段は「昼夜のリズム」に覆い隠されて(矯正されて)発現しなくとも、こうしたズレの素質を本来誰もが持っているというのはのっぴきならない話だ。では、この「25時間のリズム」の正体は一体何なのか。

自然や人体に影響する太陽と太陰

自然や人体には様々なリズムが織り重なっているが、そこには二つの性質があり、一つは周囲の環境の変化によって変わるという性質。もう一つは周囲の環境と関係なく、天体運行のリズム、特に太陽系のリズムに関わっているという性質。

前編でもふれた体壁系(知覚ー運動)は前者に該当し、感覚・運動器官は外部環境の変化に些細に反応するため(例えば人工光)、ともすればそうした本来の自然のリズムは乱れてしまいやすい。

後者の主たるものは、地球が1日かかって一回転しながら、一年かかって太陽のまわりをまわり、その地球のまわりを月が一月かかって月がまわる、という年・月・日のリズム。

三木さんの著書を読んでいると、わたしたちの身体の営みは、身近な環境要因によって影響される側面(主に動物的)と、そうした日常の身の回りの出来事とは無関係に宇宙の遠い彼方と共振する大きなリズムに影響される側面(主に植物的)の二つがあるというのがありありと伝わってきます。

天体運行といえば、その様子やリズムを素晴らしく可視化してくれる時空間の地図「地球暦」。
先日、考案者の杉山さんよりいただきました。本当に奥深いです。

その中で、先の「25時間」の周期。これの正体を潮汐のリズム、つまり月のリズムに見出します。

・筆者はかねてから、この25時間のリズムが地球生命の故郷である大海原のうねりー潮汐リズムーと深い絆で結ばれているのではないかと思ってきた。

・月の引力によって1日50分ずつ確実にずれていく潮の干満のリズムが生命誕生以来30億年になろうとする、あの海の時代の”生命記憶”のひとつとして細胞原型質に染み付いている。

・潮汐のリズムは、月に対する地球の時点によって生まれるもので、その周期は24.8時間。つまり、太陽に対する地球の時点が生み出す24時間の日リズムから、毎日毎日約50分づつずれている。

・波打ち際がずれていくように、ムツゴロウなど干潟の生き物は2週間度後に巣にこもってこのズレを調整していると考えられる。

・海の世界の生き物たちは、この潮汐のリズムと、日光の明暗(24時間の昼夜リズム)、いいかえれば「太陽のリズム」と「太陰のリズム」の二種類のリズムの下で生きている

・この陰陽のリズムは、遠い祖先から大々にわたって受けつがれ、もはや彼らの生まれながらのいわゆる体内時計となっている。

胎児にみる生命4億年の進化 

そして、この潮汐リズムが人の体内の奥深くに刻み込まれているのだといいます。下図は受胎32日から38日までのわずか1週間に子宮の中で起こるその劇的な変化を描いた写生だそうですが、脊椎動物4億年の進化の歴史の再現をみたという凄まじい物語が語られます。

人胎児の顔貌変化(三木成夫, 内臓とこころ)

・古生物学によれば古生代後期に、現代の陸上動物の祖先はそれまでの長い海の生活を捨てて上陸を敢行する。この一億年に及ぶ上陸のドラマを、受胎一ヶ月後の一週間の間に支給の胎児は自らのからだで幻のごとくに再現する。そこでは32日目の首筋にエラ穴が刻み込まれた魚類の時代のおもかげが、34日目の両生類、36日目の爬虫類のそれを経て、38日目の獅子頭を思わせる哺乳類の相貌にまで目まぐるしくかたちをかえていくのである。

・こうしてみますと、この受胎一ヶ月後の1週間に起こった劇的な変容の意味がにわかに明らかになってきます。それは、脊椎動物が個性多大の昔、デボン紀の大海原から石炭紀の古代緑地に上陸を敢行し、やがて中生代の沃野を新生代に向けて延々と歩み続けてきたその大河のドラマの再現にほかならなかったのです。

・つわりというのは、地球の印した「億」の足跡がわずか数日の刻瞬に凝縮し、そこに展開された上陸の苦闘の歴史が束の間のおもかげとして走馬灯の如く過ぎ去っていく。それは言ってみれば母体のうちなる小宇宙の出来事だったのではないかと思うのです。

受胎32に力38日までのわずか1週間に子宮の中で起こるその劇的な変化を描いた写生はまさに「個体発生は宗族発生の象徴劇である」とする三木さんの思想の真骨頂。読んでいると、人の個体発生初期である胎児の顔面形態の変化を精緻に観察しながら、脊椎動物4億年の進化の歴史の再現をみたという衝撃体験を追体験しているような感じがします。

赤ん坊16週目までに起こる「潮汐リズム」から「昼夜リズム」への移行

さらに、こうした胎児の生命記憶は、産後の新生児の睡眠リズムにもみられるという。

下図は出生後の胎児の睡眠/覚醒/哺乳リズムが24時間に定着するまでのもので、実線=睡眠、空白=覚醒、黒丸=哺乳を示している。どんな新生児にも上部(16週ごろまで)にらせんを巻いたような白い帯があらわれるので、Spiral Milky Way(天の川)と呼ばれているそう。

新生児の睡眠/覚醒/哺乳リズム
Spiral Milky Way(Kleitman, 1953)

一見でたらめに見えるこの波はつまり1地に1時間づつズレていく約25時間の周期を示しており、いわばこの新生児の間に「潮汐リズム=太陰」から「昼夜リズム=太陽」への移行・リズムの調整が行われているというのだ。

僕も娘が生まれた時に魔の3週間から1-2ヶ月に渡り夜泣きがひどくてもうろうとした日々が続いたのですが、そこにまさかこんな壮大な生命進化の物語と潮汐リズムの記憶が隠されているなど思いもしなかった。。。

・わたしたちのからだには、24時間の「昼夜リズム」だけでなく、25時間の「潮汐リズム」がその深層に存在しており、胎内で起こる4億年の上陸劇こそ、私たちが潮汐リズムとの深い絆を持っていることを物語るものである

・出生後の胎児の哺乳のリズムの変化の中に、「潮汐リズム」から「昼夜リズム」への移行が起こる。私たちにみられる「夜行性」や「冬眠」体質は、海に起源した生命40億年におよび長い進化の歴史に根ざしたものなのだ。

・遠い海の時代の潮汐リズムも、上陸以後、今日までの2億年の間に獲得された太陽を基準とする「昼夜リズム」によって、すっかり覆い隠されてしまってはいる。

・脊椎動物は、上陸と共に、太陽のリズムに生活の主導権を奪われることになったが、ここでさらに新しいリズムが付け加わるのを見逃してはならない。それは、水の中ではみられなかった、気象の変化、寒暑と乾湿のリズムである。

・私たちの日常の生活は「光の明暗」だけでなく、「潮の干満」から「四季の交代」に至る、いわば宇宙的な要素と極めて深く関わっているように思われてくる。月にまつわりつかれて、太陽の周りと自転しながら好転する、この地球の色とりどりの周期性が、あるいは、私たちの肉体を通じて現れたものではないかと思えてくる

体内に内在する自然のリズム「インナーネイチャー」

自然のリズムというと、それは外の環境の側にあって、その刺激(例えば太陽の光)に対する反応として僕らに作用しているように思ってしまいやすいのですが、三木さんの本を読んではっとするのは、そうではなく「僕らの体内、生命そのものにこそ、そうした遥か彼方からの自然のリズムや記憶が刻まれているのだ」ということです。

人が人の世界に閉じた人間だけのリズムをつくり出し、地球のリズムとの不調和がますます顕著になり、その不調和を調えようとする動きが個人のライフスタイルレベルでも社会経済レベルでも大きくなってきている中、まずは自分の生身の身体の奥底に紛れもなく存在しているインナーネイチャーや内臓感覚・直観性を感じ取る/思い出すという営みは非常に重要になると感じています。そこの根源的な基点の回復抜きに思考を回し続けても同じことを繰り返してしまうだけだからです。

そして、こうしたインナーネイチャーは、植物器官、内臓感覚と同様に、外の目に見えたり知覚されるものの背後で、ないがしろにされやすい。西田にもでてくるピュシス(自然)は隠れやすいというのは本当に見事な洞察だなとつくづく感じます。

From Photos for Everyone

「夜行型」や「朝の不登校」の生理学的な理解と見直し

三木さんは特にこどもたちのそうしたリズムの発現(例えば24.8時間の昼夜のズレ)を「夜行型」「不登校」などの問題にして片付けてしまうことに警鐘を鳴らしていたりもします。社会一般の基準となっている「昼夜リズム」とのズレを一人一人が本来的に備えているのだということを理解することの重要性を特に教育・保育の文脈で語っている。

リズムのズレによるからだの「不調」
・人間の特徴はリズム(調子)に対して、タクト(拍子)をふるう能力を持っていることだと言われます。表紙を抜いたり、加減することで、目覚めの山を前へ持ってきたり、だらだらの波を回復させたりする。

・「夜行性/昼夜逆転」や「冬眠」体質は、海に起源した生命40億年におよび長い進化の歴史に根ざしたものなのではないか。いわゆる夜行族とは、潮汐離れをしきれなかった生命記憶の強い人間たち。

・いわゆるしつけや社会の習慣となっているものを振り返ってみると、そこにはこの夜行と冬眠性に対応する血の滲むような苦心の跡が窺われる気がしてなりません。ただし、重要なことはこの拍子の加減はその人その人の波形を把握された上での加減でなければならないということです。★

「人間の特徴はリズム(調子)に対して、タクト(拍子)をふるう能力を持っている」というのは社会的動物である人間っぽくて面白いですね。

現実問題として、天体リズムの発現の仕方に個体差がある以上、社会として何かしらのタクトは必要なのだと思いますが、例えば無条件一律の朝型社会のリズムが生理的にあわずに(しかもそれが自然なことだと気が付かずに)苦しんでいる人たちも多くいるわけなので、それぞれのいのちのリズム・ペースがあることを理解せずに怠惰や自己責任論で片付けないことが大切なように思います。

三木さんも、ご自身の保育論の中でこうした研究内容が「朝の登校拒否」や「夜行性の若者たちの振る舞い」などの問題について考え直すきっかけになるのではないかと語られています。

地球上の生物共通にみられる7日の周期

このほかにも、私たちのからだの中には天体運行と関連した多くのリズムが隠されています。

例えば「7日」の周期。

現代社会の1週間=7日というカレンダー周期はキリスト教を想起する人も多いかもしれないですね(暦的な起源をたどればユダヤ暦)。

何となく農耕や太陽の周期と関連して古代の人が人為的に定めたように思っていたこの周期ですが、この7日という周期、実は地球上のどんな生物にもみられ、貝殻にも人の歯にもその縞模様がちゃんと刻み込まれているそうなのです。

7日周期で大きな脱皮をする
・「7日」の周期は地球上のどんな生物にもみられ、貝殻にも人の歯にもその縞模様がちゃんと刻み込まれている。

・ウサギの歯の断面にみえる日輪構造は、もちろん人間の歯にも、髪の毛にも、爪にもある。森羅万象の硬組織にはこの24時間の周期が濃淡様々に刻印されているらしい。ところが、特に歯の日輪構造を見ますとさらに、何と7日の周期がある。要するに動物のからだでは7日の周期として、ひとつの脱皮が行われている。

・この太陽系のリズムとの共振によって生まれた、この内なる7日の波動に耳を傾け、節をつけたのが「ユダヤ暦」。

・夜泣きは潮汐のリズムと大きく関わりがある。これはもちろん潮の潮汐リズムで、月に対して地球が自転することによって生まれるもの。90ふんや7日、女性の体に月の公転や月経周期が内臓されているように、からだの奥深くに根をおろしている。

・月のリズムは決して女性だけの問題ではない。すべての日常生活。休息と活動の上にはかりしれない影響を及ぼしていることが窺われます。従って、眠りと目覚めのリズムは決して太陽だけで支配されているのではない

鎌田東二さんとナカムラチカヒロさんの「ヒューマンスケールを超えて」でも全体の循環と結びつく月や太陰暦について触れていましたが、わたしたちのからだには、太陽=昼夜のリズム(24時間)だけでなく、太陰=潮汐リズム(24.8時間)がその深層に存在しており、胎内で起こる4億年の上陸劇にこそ、私たちの潮汐リズムとの深い絆が現れている。これを誰しもがお母さんのお腹の中で体験しているというのだから凄まじい物語です。

「”しかけ・しくみ”を抽出する眼」と「”すがた・かたち”を静観する眼」

あと、これは主に「生命とリズム」で語られているのですが、面白かったのが、生命とは何かという時の「しかけ・しくみ」と「すがた・かたち」に関する話。

生命とは何か
・自然を見る人間の目には二種類のものが識別される。その一つは”すがた・かたち”を静観する眼であり、他の一つは”しかけ・しくみ”を抽出する眼である。言ってみれば、こころの眼ととあたまの眼。これらの使い分けによって、ひとつのものが、一方では生に満ち溢れたものとなり、他方では生と無縁なものとなる★

・人間というのははじめはただ無心に”すがた・かたちを眺めるだけのものが、その眼はいつしか”しくみ・しかけ”の方で向けられていく。こころからあたまの問題へスイッチをきち変えられていく。例えば「看護と治療」も同様です。

”しかけ・しくみ”を抽出する眼」と「”すがた・かたち”を静観する眼」。それぞれもう少し深くみていきます。

・構造の「しくみ」を分析するということは、いいかえればその構造物をひとつの機械としてみたてることにほかならない

・どんな機械も何かも目的や機構の「ために」それぞれ動くと言われるように、我々が「しくみ」を考えるときは意識の有無にかかわらず、そこでは常にこの「ために」思考が働かされる。それはまさに自然科学の方法論である「原因探究」という思考形態そのものであるが、それは目的論と機械論のあいだを往来する自然科学的生物学の世界である。

・心臓がポンプに、脳がコンピューターに例えられてすでに久しい今日、人々に残された道がもはやミクロの世界における新しいメカニズムの開発のみとなったこの辺の事情は多くの識者の指摘するところにあろう。

目的論と機械論のあいだを往来しながら原因探究がされていく「しくみ」の世界に対して「かたち」の世界とはなにか。ゲーテ形態学の世界に入っていきます。

・森羅万象のどんな「かたち」も「根原の形成と個々の形成」いわば原型とその変身によって形成されてきたというゲーテ形態学の根本理論が生きてくるのはまさにここからです。

・つまり、人体の構造もまた、自然の造形のひとつとして、動物の体制に造られながら、しだいに人間独自の姿に返信してきたということができるのではないだろうか。

・これを一言で言えば、人類をはじめとしてこの地球上にいま生きているどんな動物の宗族も、30億年の歴史を遡ればことごとく元初の原形質にまで、到達するまでのものであろうが、そうしためいめいの宗族発生の歴史というものは所詮それぞれの宗族の固体発生の歴史を、いわば「束の間のおもかげ」として遥かに忍ぶほかないということであろう。

こうした人体解剖における二つの方向性を識別した上で、生を宿しているのは”すがた・かたち”であって、そのなかにこそ「いのち」というものを見出されるのではないかと語ります。

ここを読んでて思い出すのは、レイチェルカーソンのセンス・オブ・ワンダー。自然の美しさや不思議さに目をみはる感性なんていうのはまさにそうですね。

・以上で人体解剖すなわち人体構造論のたどる二つの方向性を識別することができた。そのひとつは構造の「しくみ」を分析する方向であり、他の一つは構造の「かたち」を体得する方向である

・われわれが何気なく自然に向かった時、そこでまず目に映るものはそれぞれの”すがた・かたち”でしょう。そのときのそれらはことごとく生きている。これに対して、我々の目が”しかけ・しくみ”にしか届かない時、それらはただ思惑の対象としての無生の物体となるだけではないでしょうか

・生きているのは”すがた・かたち”であって、そのなかにのみ「いのち」というものを見出すのであります。生の本来の意味はそのようなものではないかと思われるのです。

・前者が数学を基礎とする自然科学的生物学の世界に属するのに較べ、後者はゲーテ形態学を代表とする自然哲学的生物学の世界を基盤とする。前者の世界では構造の因果関係を数式に換算する「理解的思考様式」が要求されるのに対し、後者の世界では構造の形態形成を過去に遡及する「直観的思考様式」が必要とされてくる。

・いってみれば、この両者の関係は「実証」のあたまと、「類推」のこころの二つの対立に象徴されるということになろう。★

「内臓・こころ・植物性」の自然哲学的回復。「私」の物語から「私たち」の物語へ

内臓とこころの前編でも、「体壁系=動物性器官」と「内臓系=植物性器官」の紹介をしましたが、生命とリズムではここに、自然科学と自然哲学の思考様式が接続されていきます。

3:先人に学ぶ人間論
・アリストテレスはいわゆる生物を植物・動物・人間の三群に大別し、植物には「栄養ー生殖」という生き物本来のいとなみがみられるが、動物にはこの上に「感覚ー運動」という独自の動きが加わり、人間にはこの両者の上に「理解ー意志」といういわゆる「理性」のはたらきが付け加わると説明している

・一般に自然科学は、自然のもろもろをここの物体としてとらえ、これをより細かに分解しながら、各要素のつながりを法則的に解明していくものである。したがって、この方法がひとたび生の諸現象に向けられた時、そこで何がなされるかは明らかであろう。分解と解剖である。(中略)

・かくして、自然科学は、ひとのからだの両側面を「植物と動物」に像って識別するという方法論を、根こそぎ奪い去ってしまったのです。

・それは、自然科学的な見方に対して、自然哲学亭な見方といわれているものである。その見方をかりることによって、人間性をいわばその双極から支えている「こころ」と「あたま」つまり心臓と脳が、実はわれわれの植物面と動物面をみごとに象徴したものではないかということである。

・ここでわれわれは、クラーゲスの諸説ーすなわち自然哲学の象徴的思考と自然科学の分析的思考が、実は”こころの持つ植物性”と、”あたまの持つ動物性”にそれぞれ由来するという考え方にゆきあたる。

・自然科学万能の今日の世相は上述の「こころの転落」と表裏の関係をなすものであるが、我々はしかし、古代の東洋人が「思」の象形文字を作り、あたま=脳の判断がこころの声に聞き入る姿を表、さらに感覚者の眼をを微かに閉じて栄養者の口もとに豊かな笑みをたたえた仏像を作ることによって心の故郷にかえろうとした史実をあらためてふりかえってみなければならないであろう

・つまり、我々の祖先たちは、脳の働きが一方において高度の文明を約束する傍ら、実は他方において人間に我欲という際限ない煩悩をもたらし、ついには彼を破滅の道にまで追いやることを熟知していたのである。

・自然科学のいかなる知識も自然哲学の認識という”後見”に支えられない限り、すなわちあたまがこころの支えを欠く限り、そこには屈強な数の理論、したがって「我」の力学の諸定理しか残らないのではないだろうか

まず、西洋近代の自然科学的な視点の拡大によって、アリストレテスの「植物性」と「動物性」という識別の仕方は失われていったと。

その上で、自然哲学の象徴的思考と自然科学の分析的思考が、実は”こころの持つ植物性”と、”あたまの持つ動物性”にそれぞれ由来するという考え方にゆきあたることを指摘。

そして、体壁系の背後で生命の根源的な営みを内臓=植物性がないがしろにされてきてしまったのと同様に、自然科学的な分析的思考偏重の歴史の中で、自然哲学の象徴的思考が失われてきてしまったのではないか、ということが書かれています。

そういえば、先日の「今、瀬戸内から宇沢弘文 ~自然・アートから考える社会的共通資本~」でも、 舩橋真俊さんと森田真生さんの「とりまくものたちと生きる~生命・文化・科学~」という素晴らしいトークセッションの中で、Stillness(意味や目的云々ではなく、ただそこに在り、生命活動を受動的に営む)という樹木や植物のあり方から学んでいく必要があるのではないかという話がありました。人は動物としての認識はあっても、その影に自分たちの中に植物性が宿っているという感覚を感じながら生きている人は多くないのではないのでしょうか。そこにすごく大切な問い直しがあるような気がします。

「自然科学のいかなる知識も自然哲学の認識という”後見”に支えられない限り、すなわちあたまがこころの支えを欠く限り、そこには「我」の力学の諸定理しか残らないのではないだろうか

という三木さんの言葉はまさにで、

自然科学的な分析的思考では、個人は区別され、要素を分解した上でのつながりが対象となるのに対し、自然哲学的な思考では境目がなく曖昧にとけあっているなかで立ち現れていくものとして世界を認識をする。

これは、人間やいのちを個人単位で考えるのでなく、他者や自然など関係性の中にあるとする哲学者・内山節さんの思想とも通ずるように思うし、こうした「内臓・こころ・植物性」の自然哲学的回復とは、つまり「私」個人の物語から「私たち」への物語への移行を意味するということなのではないでしょうか。

そして現代社会はこの私たち(WE)とは一体誰なのかということについて、他の生命や地球環境にひらかれた再定義が求められていて、まさにヒューマンスケールを超えた、人に閉じた世界からの脱却が求められているように思います。

ということで、すっかり「内臓とこころ」の第三部の詳細に入っていく前に長くなってしまったので笑、そこについてはとりあえず文末にメモだけ残しておきます。特に「言葉の形成」は「内臓の感受性」ときってもきれない関係にあるというのはとても重要な指摘かなと思いました。

内臓とこころ / 三木成夫

生命とリズム / 三木成夫

胎児の世界 人類の生命記憶 / 三木成夫

第三部:こころの形成
・人類では心臓に象徴される内臓感受系の覚醒により、神羅万象に心がひらかれてゆくが、この好奇心の異常な発達は、赤ん坊にその六ヶ月からのなめまわし、満一歳からの呼称音を伴う指差しを相次いで促し、ついにそれは視覚拡大のための直立においてきわまる

・どうやら人間の心の現れ方にはルートがあるように思われる。ある一つのものが目に入った時、同時に、それに関わった過去の、ありとあらゆる記憶が再燃して、その視覚像を幾十にも包み込む。★

・入道雲に、夏に関わる幾千もの思いが浮かぶ。しかも、夏の生命記憶がむくむくとよみがえり、私たちの意識を強烈に彩る★あの胸の奥、そして腹の底から湧き上がる叫びです、ここでいうまさに「内臓感受」の世界です★★★

・こうして心によみがえってくるのは「内臓」の記憶だけではない。そこには体壁系の記憶も加わります。口腔感受の舐め回しの運動像が蘇るのは、舌という内臓触覚による内臓記憶の再燃。しかし、同時に、手という体壁触覚による撫で回しの運動像も蘇ってくる。感覚期間も同様。よみがえってくるのは、からだのうちから外まで要するに全身の肉体に取り込まれ、刻み込まれた全ての記憶です。

心のあらわれる道筋。目の前の印象像に、記憶の回想像が裏打ちする。「いまの此処」に「かつての彼方」をが蘇り、二重に写しだされる。

・この心の目覚め、なめまわしのはじまる半年ごろからその準備に入る。まどろみの状態から、やがて、めをひらいていくのが、指差しという行為。まさに、先ほどの印象像と回想像の二重写しが行われている。

・わたしたちの頭は、こころで感じたものを、いわば、切り取って固定する作用を持っている。印象と把握の関係です。この切り取りと固定が、あの一点の照準という高度の機能に発展してゆくのです

(立ち上がり)
・「直立」は「視覚拡大=眺望」の衝動ー人間だけの持つ、この強烈な促迫の産物(クラーゲス)
・動物の獲物を狙うだけではに、「遠」に対する強烈な憧れ

(言葉の獲得)
・「太鼓の直立人にとって、神羅万象の一つ一つは、それぞれの顔つきで語りかけるものであった。その語りかけに対する心の応答が、原書の芸術と「言葉」になって表れるが、言葉はその生きた記念碑として、先祖代々、日々の生活の中に受け継がれていったものである。言語習得の本格化する、2-3歳は、だから心情涵養の黄金の日々である

・「指差し」や「なに」には象徴思考のよちよちあるきであった(指差し思考ー象徴思考ー概念思考へ)

・人間の大脳皮質下の「髄質」で、融通無碍に交流している。人間は、感覚のいわば互換が特に、視覚と聴覚のあいだ、それも視覚から聴覚に向かって発達している。「連合野」にて、個々の感覚はもちろん、感覚領域も運動領域もお互いに一体となって、「心のめざめ」「印象像と回想像の重なり」も結局は脳のこうした構造によって起こる

・人間の言葉というものは、魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたもの。声の発生源である喉仏の喉頭筋も、声を言葉に直す口腔の複雑な筋肉も、全てエタの筋肉の衣替えしたもの。脊椎動物の5億年の歴史を遡る時に否応なしにこの事実を突きつけられる。人間の言葉がどれほど、はらわたに近縁なものか。それは、露出した腸管の運動というより、もはや、「響きと化した内臓表情」といった方が良い。つまり、はらわた抜きでは、ものを感じることはもちろん、その感じを言葉に表すこともできない。★★★

・「内臓の感受性」と「言葉の形成」とはきってもきれない関係にある。いいかえれば、「ものを話すこと」と「心で感じること」の両者がまさに双極っ関係にある。あの感覚と運動の同時進行の関係、すなわち内臓の肝などの受精が高まった、それだけ言葉の形成も的確になる。逆にいえば、すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓感受性から生まれる